5.専門誌"THE WHOLESALERS"
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最後の訪問地シカゴへ

  フランクリン・ルーズベルト・ドライブはラッシュアワーであった。大統領選挙のあと、国民が「さあー」といって動き出したのか、私達を乗せたタクシーはノロノロ運転である。運転手さんが私達の出発に時刻を気にしている。午後3時過ぎ、ホテルの前でタクシーに乗り、4時前にはラガーディア空港に着く予定であったが、今、4時を過ぎている。4人の落着かない様子は黙っていてもよく理解できる。「ホーッ」車が流れ出した。運転手さんは額の汗を拭った。N・Yに来た時はわずか40分だったのに、帰りはなんと1時間20分もかかってラガーディア空港に着いた。
  定刻5時ちょうど、ユナイティッド航空923便はシカゴへ向けて飛び立った。2時間半の空の旅である。夕焼け空に横たわる雲が、しだいにしだいに黒味を増していく。横に広がった橙(だいだい)色の帯が細くなって紐になり、とうとう所どころ切れて消えてしまった。機内では簡単なスナックが出されていた。
  シカゴでは実質、丸一日しかない。夜に着いて次の日1日、そして、その次の日の朝には帰路につく。まだ2泊するので、ゆっくりするものの何かもったいない気もする。オヘア空港は2度目であった。はじめてアメリカらしさを感じ、これから訪れるアメリカに希望と不安を抱いたところだ。ニューヨークとは1時間の時差があり、今は午後6時半。お客さんにビジネスマンが多かったのも、ニューヨークとシカゴを結ぶ大動脈だからであろう。
  シカゴ市内と空港を結ぶ高速道路に沿ってノースウェスタン鉄道が走っている。時には右に、時には左に、また鉄道をはさんで両脇に道路が走る。

福井氏は大阪の新御堂筋の感じによく似ていると言われる。街灯のあかりといい、本当に大阪のようである。周辺を含むと人口700万人以上という世界的な都市であるが、セント・ローレンス運河ができるまでは、自然に居着いた200人ほどの村落があるだけであった。しかし、1862年に自営農地法が制定されてからは急成長し「草原の中の最初の都市」と変貌するのである。アメリカではGreat Country(偉大な田舎)と呼ばれ、国際性や洗練された雰囲気に乏しいとされているが、鉄道王プルマンを生み、ギャングの王様アル・カポネを生んだ。車は都心に入ってきた。街並みは広く車の通りは少ない。N・Yのような雑踏は感じられない。やはり田舎である。
  ヒルトン系のホテル、パーマーハウスは、モンロー通りとステート通りとが交差する角にあった。シカゴ行政とビジネス街の中心地で、近くにはシビックセンター、証券取引所、連邦政府ビル、それに多くの銀行があり、まさにシカゴの心臓部に位置していた。

スタディツアーPARTU

  チェックインを簡単に済ませ、すぐ食事にすることにした。DKBのハマモト氏ご推薦の日本料理店に行くことは、すでに飛行機に乗る前から合意していた。福井氏は今日は別行動であったが、ぜひその店へ行きましょうと二つ返事で決まってしまったのである。その「やなせ」という店は、車で10分ほどのところにあった。私はシカゴの街並みを目で追っていた。シカゴ川には橋がいくつも架かっていて、川幅といい、大阪の中之島あたりを連想してしまった。
  4人だけでゆっくり食事をするのは、アトランタの夜以来であった。10日間の予定のスダディツアーも、あすで全日程を終える。