部屋のベッドの上に月曜日に出したワイシャツが3着ができ上がっていた。私はすぐお茶を沸かす用意をした。例によって、ティータイムである。常連の3人は思い思いの格好でイスに、ベッドに座られている。橋本氏は「フィンケル氏ともっとゆっくり話したかったなあ」と空を見つめておられたし、福井氏は、あした、N・Y郊外のユーザーへ行かれることで頭がいっぱいだろうし・・・。お湯が沸き、お茶を注いでいると「あした何時にしましょう?」と一瀬氏が言われた。「ゆっくりでいいんでしょう」と私。
あすはN・Yの第一勧業銀行を訪問する予定である。あいにく、福井氏は別行動。また、4人家族が3人になる。「あしたの朝DKBへ電話して、それからにしましょう」と橋本氏。福井氏はさかんに橋本氏の『その時点になって考えましょう』といったアプローチの仕方をほめられる。旅行中、私達の間に流行してしまったようである。福井氏とは3時にヒルトンホテルのロビー、明朝8時ごろ一瀬氏より指示をもらうことになり、それぞれの部屋へ戻って行かれた。
DKBニューヨーク支店
アメリカに来てアトランタで2泊、ヒューストンで2泊、そしてニューヨークで3泊、ちょうど1週間が過ぎた。きょうは、第一勧業銀行のN・Y支店を訪問してアメリカの金融事情を勉強させていただき、スタディツアー最終の街シカゴへ向かう予定である。朝7時前から名残り惜しく身支度をすることにした。靴やおみやげを買ったので、バッギージがはちきれそうである。
一瀬氏、橋本氏と3人でヒルトンホテルの裏通りのイタリア系のレストランで朝食をとり、ホテルのチェックアウトをする。皮ジャンパーを着たイタリア人2、3人がキャッシャーで何かもめている。どうも10ドルを払うか払わないかでトラブっているようだ。リラの価値が以前より下がってからは、10ドルといえど彼らのとっては高価なのであろう。
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日本経済は相当に世界でも力をつけてきたと思わざるを得ない。
第一勧業銀行(DKB)のN・Y支店はN・Yで一番高いビル、世界貿易センタービルの49階にあった。世界一の高層ビルとして摩天楼街にそびえていたエンパイヤ・ステート・ビルに代わって高層ビルの王座についたこのビルは、2つのツイン・タワーをもつ108階建てで、高い所のあまり好まない私にとっては、恐怖そのものであった。まして地震のないN・Yにとっては安全であるといわれても、その柱の太さを目の当たりに見ると実に不安であった。44階でエレベーターを乗り継ぎ、DKBのあるフロアーへ。私は無意識に一瀬氏の肩によりかかってしまった。
私達を迎えてくださったのは、同支店のハマモト次長とホリイ氏であった。通された支店長兼応接室からは、過日、グレイラインの市内観光で訪れたバッテリー公園を見下ろすことができた。
恰幅のよいハマモト次長の言葉は重みがあった。海外の金融事情を話されるその一つひとつに年輪が感じられた。私達の小中学校の教科書には、国際金融の中心はイギリスのロンドンとあったが、それは第一次世界大戦の前であって、それ以後、イギリスの経済的地位が著しく後退していったという。それに反比例してアメリカの国際的地位が目ざましく上昇し、国際金融の中心は次第にロンドンからN・Yへ移る気配を示したのでる。なかでも、1944年に締結された「ブレトンウッズ協定」の影響は大きく、IMF(国際通貨基金)体制下で、それまでの"キー・カレンシー"(基軸通貨)であった「ポンド」に代わって、アメリカの「ドル」が中心的な地位を占めるようになったのである。必然的に、国際金融市場としてのN・Yの地位は確固たるものとなってしまうのである。
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