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  昨年(1984年)の秋、アメリカから帰ってきてすぐ、商工経済新聞社の酒井さんと喫茶店でコーヒーを飲みながら現地で体験してきたことを話していたところ、「紀行文でも書いてくれませんか」と頼まれてしまった。はじめ冗談のつもりで受け流していたが、そうこうしているうちに『アメリカ・スタディ・ツアー』という題字もできあがってきたし、年内にあげてくれと言われる。年末の忙しさや落ちつきのなさ、バタバタを考えるととうてい無理な注文である。「お正月の休みに書くよ」と約束して、早速、記憶の残っているうちに下書きのメモだけしておいた。
  見たこと、聞いたことがけを羅列するのも芸がなさすぎるし・・・・引き受けたものの、なかなかページが進まない。一旦エンジンがかかると、イメージが自然に浮かんできて原稿用紙10〜15枚はすぐであったが、たいていはギアーがセカンドぐらいまでしか入ってくれず、ペンの動きが重たい。
  ペンがスムースに進むのは、もっぱら夜から夜中にかけてであった。まず国語辞典を傍らに置き、英文の百科事典、アメリカの地図、専門書による地誌の勉強、ホテルのレシートや旅行のパンフレットなど資料の山に囲まれての作業であった。図書館へ出向いた日もあったが、やはり、記憶の唯一の窓口は実際に旅行に持って行った日記帳と小遣帳であった。あるときは、レストランの名前が思い出せず、トランクから机の引出しに至るまで、捨てたかどうか判らない行方不明のマッチを家捜ししたこともあった。すべてが書き終わったのは、連載がはじまって4ヶ月目、5月25日であった。原稿用紙126枚を要した。

  管材新聞の連載は2月から8月まで20回を数えた。連載中、拙稿に対して、いろいろな方から「読んでますよ」「何日間行かれたのですか」「本にすれば・・・」という喜ばしい励ましの言葉をかけてくださったが、本を出版するということは、その分際でもなく考えすらしなかった。ちょうどその頃、父聡一が大阪府知事より産業功労者として表彰された。そして、その父は今秋10月20日還暦を迎える。時には偉大な心をのぞかせる父、時には老将たる寂しさを見せる父・・・。いうまでもなく、私がアメリカ視察旅行の11日間もの長い間、留守をすることができたのは、何よりにも父の寛容さが私のわがままを許してくれたからで、また社内の諸兄も快く理解してくれたからである。
  ここに深く感謝を申しあげる次第です。8月に連載が終了して、一緒に同行された3氏はもとより、社内の諸兄、友人より出版を再度勧められた。ここに父の栄えある産業功労者表彰を記念し、また満60歳の誕生日を心から祝福し、出版を決意するに至った。
  この『アメリカ・スタディ・ツアー』の小冊子を上梓するにあたって、管材新聞に連載されたものに若干手を加え、見出しも付け加えた。また多くの方々より暖かい助言をいただいた。特に、出版するノウハウを教えてくださった竹田政廣氏、友人の小川基介氏には深くお礼を申しあげる次第です。最後に、こんなに素晴らしい本に仕上げてくださった商工経済新聞社の酒井豊さん、なにからなにまで本当にありがとうございました。

1985年秋

川 村 耕 一