"父の生誕100年の記念に"(第1部)             九津見ミヨコ


   「沈黙は金、雄弁は銀」という諺があります。確かに沈黙からは何も聞こえないと思えば何も聞こえませんが、聞こうとすれば色々な心の声が聞こえてきたり、或いは聞こえなくてもその場面で何を訴えようとしているのか解ることがあります。それは自分と相手との関係、信頼度や心の結びつきの深さや、自分自身の心(人格)のキャパシティ(器量)等々により、人それぞれに受け取り方、理解の度合いもそれぞれだけれども・・・・・だからこそ"金"なのでしょうね。
  雄弁は素晴らしいです。感動的です。心を揺さぶられたり、共感したり或いは腹立たしく思ったり、憤りを感じたり、言葉の魅力の虜になって雄弁の中に引き込まれることも多々あります。なのに何故"銀"なのでしょうか?
  人間は言葉を持つ動物で、自分の意志や考えを言葉で以って相手に伝えて理解を求め意思疎通を図ることができます。黙って居ては伝わらない事も多くて誤解を生じます。だのに何故雄弁は"銀"なのだろうか? と、若い頃は思ったものでした。
  言葉に出して表現してしまうと、そうではあるけれどももっと何かプラスα(アルファ)的なものがあると感じて、別の表現で付け足してもいやもう少し違った何かが・・・と、表現尽くせない事って世の中に、人の心の中に一杯ありますよね。だから雄弁に語ったところで語りつくせないというか、話された言葉の制限を受けてしまって内容が小さくなるというか、浅くなるというか、そういう事もあって"銀"なのかなぁと今は思うのですが・・・。

  前置きが長くなりましたが、父と母は正に「沈黙は金の父と、雄弁は銀の母」だったかなぁと、この10年間につくづく思うようになりました。
  無口で殆んど喋らずただニコニコと笑顔で私達娘と母の会話を黙って聞いていた父に物足りない気持ちを味わったこともあり、母がいつも「この人はノレンに腕押しや」とか、「糠にクギ」とか言って、父との会話の無さを嘆いて娘達に愚痴をこぼしていたのが解るような気がしていました。

  父が亡くなった時、その「死に方」の見事さに心を奪われました。私の予想通りの逝き方、誰もが羨ましく思うような安らかさで、あっけなく(苦しむ事もなく)生命を終えました。

  長年ホスピス活動に身を投じて多くの死にゆく人々を看取って来られた医師、柏木哲夫氏(阪大ESSの同期の仲間)の持論である、「人は生きたようにしか死ねない」。即ち、「しっかり自立して生きた人はしっかり死んでゆくし、べたべたした生き方をした人は死ぬ時もそういう感じで死を迎える」と。
  彼の実体験から得られた持論を20年ほど前に新聞で知った時から、私はいつもニコニコして周りの人や物に感謝して"結構な事や"、"有難いことや"と口癖のようにつぶやいて暮らしている父は、雄弁には喋らないけれどきっと死ぬ時は苦しまず安らかに老衰のような感じで亡くなるのではないかと、ずっと思っていました。
  ある朝、なかなか起きてこない父、どうしたのかしらとベッドへ覗きに行ったら亡くなっていたというふうに、誰にも迷惑をかけず一人で旅立って行くのではないかと予想を抱いていました。本当にそれに近い形で父は入浴後気持ちよさそうに眠るように逝きました。

  父の死の直後はその逝き方に感動したものの、姑(九津見の母)の介護や残された母のことに気を取られて過ごしました。姑も母も逝ってしまって各々の母への思いに心をとらわれた後、数年すると父の優しさ、限りない大きな愛を感じずには居られなくなりました。
  無口だった父だけれど、入院中(前立腺の手術で何回も入院)私の当番の日に父の介助に行くと、「遠いのに有難う」と感謝され、父は検温や清拭に来る看護婦さん達に「ありがとう」、「すみません」、「おおきに」と必ず感謝の言葉を伝えて尋ねられた質問にきちんと答え、点滴が終わりそうになるとナースコールを押して教え、又同室の動けない患者さんが困っていると解ると、直ぐナースコールして看護婦さんに来てあげて欲しい旨を伝えたりしていました。多くは語らないけれど、必要な事、肝心な事はちゃんと表現していた父。私たち娘(家族)が関屋を訪ねると満面の笑みで「よお来てくれたなァ」と、体中で喜びを表してくれました。最後に次のようなエピソードを紹介しておきます。
  私が長男を出産して1ヶ月余り生野区田島町の実家にお世話になって、明日、池田のアパートに帰る前夜、父と二人きりになった時、父は言いにくそうに切り出しました。「お産で産道が傷ついている産後の夫婦生活は十分に気をつけるように」と。現在のように性について開放的な時代でなく、まして明治生まれの日本男児であり、SEXのことを口に出すのは禁句のような時代に育ち生きてきた男親である父からこんなことを聞くなんて・・・。どんなにか言い辛かった事でしょう。父は終始私の顔を見ないで自分の手ばっかり見つめて話していました。その父の胸中と愛の深さに私は胸が一杯になったことを覚えています。子煩悩を絵に描いたような父ならではの忠告でした。

  雄弁な母は多くの名句・名言を私の心に遺してくれました。人生の節目節目に私にとっては珠玉の言葉である"名言"の数々を遺してくれました。6年後に母の生誕100年が巡って来ますが、その折に今回のような企画があればまた、母については書きたいと思っています。
  沈黙の父は相好をくずして喜びを表し、そのえびす顔で私の心を癒してくれました。年月を経るごとに父のような老人になりたい、父のようにその日その日をあらゆる物への感謝の中で生きて、父のように死ねたらと願う今日この頃です。

「お父ちゃん、生誕100年を祝って一族皆が集まる機会を初孫の耕ちゃんを中心に考えて呉れたんよ。良かったね」

  きっと天国から特上の笑顔で"おおきに""おおきに"と見ているでしょうね。 じゃぁねぇー

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