熊取の家 瀧本京子
父母との一番の思い出は、何と言っても熊取の家を購入する時に、色々とお世話になりました。主人と下見に行った時、日曜日なので大工さんも休み勝手に家の中に入って
見ることが出来ました。丁度角の家で図面を見ていた時にいいなあと主人とも話していた
家でした。明るいし、小さいけど庭付きで収納も他の家に比べ多くあり気に入りました。
早速第一希望として申し込みました。ところが残念なことに第二希望の家が当たりました。
そのことを父に報告すると、第一希望の家が万が一キャンセルされるような事があれば
是非連絡して欲しい事を申し出るようにとアドバイスをもらい、大阪府営住宅公給公社に
その旨を強く印象つけました。
第二希望の家でも当たったので頭金を入れました。数日後公社から電話があり、私たちが
第一希望していた家がキャンセルになりました。本来なら再度公募し、抽選するのですが
日数がかかるので、希望されている方に優先するとの事でした。喜んで受け、早速差額を入金する事にしました。父のアドバイスが無ければ第一希望の家を購入することは出来なかったと心より主人と共に感謝いたしました。
最初の家の点検の時も父に同行をお願いしました。私達は経験のないのでどのように
点検をするか分かりません。しかし父の指導の元無事終了することが出来ました。
窓の手かり、玄関の明り取りの所にサッシ、ぬれ縁と台所出戸の所のテラス、干し台など
業者と上手に交渉をしてくれました。私達にとって大助かりでした。
その足で電話局に行き、よい電話番号も探してくれました。下4桁「4570(ヨイナー)」
自分の番号のように良い番号でよかったなと喜んで下さった、父の姿が今でも鮮明に覚えております。
関屋に帰ってからもよい電話番号でよかったと母や姉夫婦に、うれしそうに話されたと、当時聞きました。点検の時にも細々とした処まで見て下さり、まあまあ良心的に工事している、カーテンレールもダブルになっている、窓も空気ぬけもついてある等、父の感想に
安心しました。そうゆう熊取の家は父も思い出が一杯詰った家です。
熊取の家のローン残金も生前に頂いた株を売り清算しました。
その報告、お礼のため関屋に行きました。私達は「関屋に足を向けて寝られない。」
このたびのご恩を生涯忘れることが出来ないと厚くお礼をいたしました。
父母は有意義な事に使ってくれたことを大変喜んでくれました。
瀧本の母が元気にしていた頃は週末忙しい中、主人と二人で、熊取で過ごせたのも
山野の両親、瀧本の母、子供たちのおかげと思っております。
1980年11月末に少しならが荷物を入れ,家電、家具を設置し、食器などそろえ徐々に生活が出来るようになりました。庭も植木屋さんにたのみ、マキの木を植え、石の灯篭も立てました。
81年5月頃、川村兄姉の運転で関屋から父母が熊取の家に来てくれました。
母は車酔い止めの薬を飲んで来てくれたそうです。子を想う親の恩、今戻りながら
ありがたく思いました。
玄関衣裳として当時の私達にすると高価な下駄箱など、生活出来る形を揃えていたのを
父母がみて安心したのか大変うれしそうに「よかったなぁ」と喜んでくださったお顔は
いつも私たちの心の中に焼きついております。
初めて自分の家を手に入れた大きな喜びのあった家、父母との思い出の家です。
日当たり良し、風通し良し、市内に比べ空気はうまい、漁港に近くて新鮮な魚が安く
買える、熊取に住むのには良さが一杯でした。
しかし大阪市内に70年近く住み慣れると、市内の利便性、又子供、孫の所に少しでも
近いところが良いと思うようになりました。
2003年に思い出の詰った熊取の家を手放すことに決めました。
23年間色々思い出が走馬灯のように巡ります。しかし始めに父母が家を見に来てくれた
あの日がいまでも私たち生涯忘れることが出来ません。
本当にお父さん、お母さんありがとう。
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