Vietnam Report      2005.11.20 〜 25
管材新聞平成18年1月18日号紙面


1.中国のリスクヘッジ先ベトナム     − TOTOを訪問
  日本の企業が大小問わず中国へ中国へ目を向けていたここ数年、中国への投資ブームも反日運動や抗日デモによりややブレーキがかかってきた。本当に大丈夫なのかと疑問視をする声も聞かれるようになった。「中国よりインドのほうがまだ英語が通じるし・・・」「中国は担当がすぐにいなくなって、どうも・・・」「約束は守らないし・・」など様々な失敗談も至るところで耳にするようになった。
  技術と機械を持って丸ごと輸出し、まるで優秀な人間までもが人質に取られたようなものである。中国へ赴任された方々の苦労は、相当なものであろうと思う。ストレスが溜まりっぱなしではないかと改めて痛感する。
  そんな折、商工経済新聞社主催のベトナム経済視察に参加する機会を得たことは、新社会秩序を唱えるグローバリゼーションとアジアンパワーを誇る民族主義の狭間を探れるやもしれない。

  今回の視察は、首都ハノイと南のホーチミン(旧サイゴン)の日系の企業と現地法人を訪問することになっている。中国と同じ共産党主導による社会主義国で北と南を同時に視察できるのは、非常に興味深いところだ。鳥インフルエンザの真っ只中のベトナム視察で、少なからず不安はあったが、すぐに解消された。私たちがベトナム入りする一週間前に、すべて禁止となっていた。鶏とタマゴの生産中止、焼却処分、街の店先やホテルのメニュー、レストランの食卓から姿を消していた。
ハノイ朝の屋台(樋がねじれている)   ハノイの朝は早い、バイクの音とクラクションが9階の窓に響いてくる。カーテンを開けるとひとまわり大きな太陽が輝きを増そうとしていた。「河内」と漢字で書いてハノイという。湖か大きな河が少し先に見える。街並みをずーと遠くまで見渡せる。背の高いビルは、余りない。人口約300万人、ベトナム社会主義共和国の首都である。
  朝食のあと、出発までホテルの周辺を散歩する。初めてベトナムの空気を吸ってみる。 道行くバイクの流れは留まるところを知らない、2人乗り、3人乗りは当たり前で、マスクをして運転する人も多い。道端の屋台ではひと回り小さいイス・テーブルで座って食事をしている。100円程度で食事ができるそうだ。
  交差点では、バイクがスタートラインに並んだマラソンランナーのように規則正しく群れをなしている。信号が変わるとまるで青梅マラソンのような風景である。
  折り返して、街を徘徊する。簡単なネジ切り盤を道端に置いた配管材料屋もある。食料品のスーパーに入って、ミネラルウォーターを買った。3,200ドンであったが、1万ドンを渡すとおつりを7,000ドンくれた。日本円に換算したら一本約25円。3円ほどまけてくれた。
TOTOベトナム全景   マスクをしている人が多い理由が解った。舞い上がる砂が細かい。半時間ほど散歩をしただけだが喉がイガらっぽくなってきている。

  TOTOベトナムは、ノイバイ空港へ向かうタンロン工業団地にあった。ちょうどハノイ市内と空港の中間にある。市内から30分以内の距離である。キャノンやヤマハ、住友ベークライト、デンソー、松下電器の看板も見える。
  真矢社長が私たちを迎えてくださった。3階の応接室で工業団地とTOTOの実情を説明を受けた。 2002年3月にベトナム進出、現在900名が働いている。大学卒が80%を占めるがマネージメントできる能力を持った者は少ない。タイ、インドネシア、中国での研修も実施している。
  原材料や部品の調達は、国内ですべては揃わないので、70%は中国、タイ、フランスから輸入している。箸を使う国民なので手先が器用で非常に勤勉、識字率は93.4%。法定最低賃金は36米ドルだが通勤手当、昼食代、保険などを加算すると8〜90ドル掛かっている。この工業団地は優先順位が高いせいか、電力不足による停電はほとんどないそうである。部門によっては三交替制を採用している。
バイクと自動車の信号待   TOTO製品は、価格が高くて最高級品というステータスがここベトナムにはある。 日本の技術は素晴らしいものだと今さらに思う。しかし、工場内を見せていただき、熱心に取り組んでいる真剣な社員の姿を見ると、日本の若者が腑抜けのように思えてくる。 目の輝きがちがうのだ。
  TOTOの社員は、日本の教育が行き届いていて、すれ違うときには必ず会釈をして「シン・チャオ」(=こんにちは)と言って挨拶をしてくれる。どことなく親しさを感ずる国民である。結局、この視察中、ベトナム語を覚えたのは、このほかに「カ・モーン(=ありがとう)」と2つだけであった。
  ベトナムは有望事業展開先の第4位となっている。中国一極集中のリスクヘッジ先として捉える企業も少なくない。心情的に馴染みやすさがあって、ますます注目されるのでは ないだろうか。
  TOTOベトナムをあとにして、バスは市内に向かっている。心地よい暖かさの気候である。外は、相変わらずバイクが走っている。用事もなく走っているのかと思うほどである。

 20002001200220032004
1位
2位
3位
4位
5位
6位
7位
8位
9位
10位
中 国
米 国
タ イ
インドネシア
マレーシア
台 湾
インド
ベトナム
韓 国
フィリピン
中 国
米 国
タ イ
インドネシア
インド
ベトナム
台 湾
韓 国
マレーシア
シンガポール
中 国
タ イ
米 国
インドネシア
ベトナム
インド
韓 国
台 湾
マレーシア
ブラジル
中 国
タ イ
米 国
ベトナム
インド
インドネシア
韓 国
台 湾
マレーシア
ロシア
中 国
タ イ
インド
ベトナム
米 国
ロシア
インドネシア
韓 国
台 湾
マレーシア
国際協力銀行「わが国製造業企業の海外事業展開に関する調査報告」

  1990年当時のマレーシア首相マハティールが東アジアの自由経済陣営の結束を唱えたEAEB、EAEC(東アジア経済ブロック、グループ)には、アメリカがAPEC(アジア太平洋経済協力会議)で十分ではないかと猛反発した経緯があった。覇権にこだわり軍事だけでなく経済にまでも割って入るアメリカであったが、先月行われたASEANプラス3カ国の首脳会議は、アジア地区だけの拡大ASEANとしても注目すべき事柄である。


2.穏やかで勤勉なベトナム人     − ヤマハ発動機を訪問
  共産党支配による社会主義国は、中国以外では初めて訪問した。これが社会主義国かと 正直びっくりしてしまった。鳥インフルエンザの予防のために国家統制をしたのは、社会主義国らしく思うが、これは民主主義国家においても同様なこと、牛肉の輸入規制にも例は見られる。ソ連のぺレストロイカの触発もあって、1986年に採択されたドイモイ「刷新」政策は、ベトナム共産党がこれまでの政治、経済運営の誤りを認める「自己批判」から始まっている。何か「脱社会主義」のように見受けられるが、社会主義国家建設における過渡期の選択である。まさに市場経済を導入をしているところで、経済構造改革の正念場はむしろこれから迎えるのである。
  一昨年アメリカと通商協定が結ばれた。これからグローバリゼーションが是とされ伝統文化は崩壊の危機に直面することになる。2006年までにAFTA加盟やWTO加盟が実現の運びとなれば、脆弱な国内産業の保護と経済自由化の外圧の狭間で苦しい舵取りを余儀なくされることになる。
  昼食後、ハノイ市内にあるヤマハ・モーター・ベトナムを訪問した。当初、工場を見せていただく予定であったが、新型オートバイを近々発売されることもあって、オフィスへの訪問となった。
  ベトナム国内向け100%にオートバイの製造販売をしている国内シェアー第2位の会社。社員2,400人(うち日本人23人)。8年前ベトナムにやってきた。ライバルのスズキは10年前、ホンダは台湾経由で6年前に進出してきている。現地での調達率は80%まできている。重要部品は日系やタイ系の工場で調達、原材料は本社でまとめて買い付けるシステムで、アセアン諸国においてはバンコクが本拠地となっている。
  最近のコピー対策は、モグラ叩きの状況で、ニューモデルを発表してもわずか3ヶ月で作ってくるので、頭を悩ませている。バックには政治絡みも見え隠れしているので、現場を押えるしかない現状だそうだ。
  ヤマハ・ベトナムでの社員の定着率は高いほうである。マネージャークラスは日本人が多いが、ベトナム人は性格も穏やかで、仕事へのポテンシャルが非常に高いのでマネージャーへの登用もしている。その証拠に改善提案が月2,000件以上も上がってくるので、目を通すだけでもたいへんである。  販売価格は110cc、125ccクラスで1,500〜1,600米ドル、ホンダは安売りをしていて800ドルで売っている。コピーものは300〜400ドルで出回っているそうだ。日本製が一番品質も良く価格も高い、次は韓国製、そして中国製となる。
  お会いした竹田社長は、ベトナムに来て6年半、今年はじめ家族を日本へ戻して再び単身赴任になったとおっしゃる。色々不便なことがあると思いきや、かえって気が楽になったそうだ。奥さんの日用品の買物に付き合わなくてよくなったし、話し相手にならなくて済むということらしい。
  キッツのコピー品「ZITZ」一昨年、参加した貴紙主催の大連・北京視察の際、日系企業の日本人の方々には、いろいろな苦労があって疲労感が漂う印象を受けた。説明される言葉尻が重たいイメージであったが、ここベトナムの日系企業の社長や責任者の方々からは、そんなに重い辛い言葉は聞かれない。「ベトナム生活を満喫しているんだな」と読み取ることができた。
  ハノイの街には、配管材料や流し台、水道用品、バスタブ、陶器などを売っている街がある。街並みは秋葉原や日本橋の電器街のようなイメージといったところだ。TOTOやINAX、アメリカンスタンダード社などの看板が並んでいる。キッツのボールバルブと思いきや、よく見ると「ZITZ」マーク。レバーハンドルの色もそっくりである。コピー商品に笑ってしまう。ボールタップを吊り下げている店、大きさの異なる目皿、シール材、パテなどを売っている店、2〜300メートルほどの街全体が、いわばホームセンターになっている。
  また別のところには機械工具・電動工具や金物、くぎ、ネジなどの街並みもある。オートバイの修理工場がかたまっているところもある。溶接や火造りをしてバイクの部品を修理している姿は、40年前の日本をとよく似ている。
  一概に40年前とは言いがたい。賃金で比べるならそうかもしれないが、日本には鉄道がくまなく敷かれ大都市には地下鉄が走っていた。東京五輪が開催されようとしている時代と、今のベトナムとは相当に差はあると思う。
  食事までの時間を利用して、ホーチミン廟を見学に行くことになった。ベトナム人なら皆が敬愛する建国の父ホーチミン。1975年の建国記念日に合わせて創られた。中にはホーチミンの遺体が安置されおり、内部に入るにはセキュリティーチェックを受けるらしい。中では私語禁止、脱帽、ポケットに手を入れるのも禁止。午前11時までしか入れないとのこと。警備係員が4名立っていて、建物に近づいて歩いていると、「ピーッ、ピーッ」と笛を鳴らして「離れろ」という合図。
ハノイ1975年9月に建立されたホーチミン廟   バーディン広場のホーチミン廟の反対の正面に国会議事堂がある。箱型の簡素な建物である。「栄光あるベトナム共産党万歳!」の横断幕が掲げてある。またホーチミン廟の裏手には一柱寺がある。1049年、李朝時代に建てられたという小さな寺で、蓮の池の上に一本の柱で建っているという幻想的な姿が強烈な印象を与えてくれる。本堂に向かう階段の左右にはシーサーが座っているのは親しみを感じる。線香のかおりが安らぎを与えてくれた。
  昼間から喫茶店や道端で談笑する男連中をよそに、行商をする女性、食堂や市場で店番をする女性と、働く女性の姿が際立つ。
  ベトナムでは公務員の給与は安く、行政担当官の勤労意欲は著しく低いそうだ。そのため領収書が発行されない「手数料」を上乗せしなければならない。窓口担当者たちは皆で不正をして、皆で裏金を管理して、公平に分配するのである。つまり「闇手当」が存在するのである。賄賂や接待も十分に存在する風土で、役人の立会検査などには足代として包む場合も少なくないと聞く。また口利き料として3〜5%をピンはねされても、それがまかり通るのが現実だそうだ。
  時間外にアルバイトをして生計をたてているのもいる。看護婦であればマッサージ、学校の先生であれば私塾を開き、副業収入を得なければ生活が成り立たなくなってきている。 働く女性が多く見受けるのも、そのあたりが本音なのかもしれない。

自転車でほうきを行商をする女性ハノイ行商の女性と宝くじを売る女性


3.HAMECOを訪問     − 一貫生産工場
  バイクの台数1,200万台、国民の7人に1台。朝のバイクラッシュも納得がいくにしても、それ以外の時間帯でもバイクの流れは止むことがない。三交替制の出勤時刻か、退社時刻か。何の目的で走っているのだろう。夜になると、バイクに乗っているカップルがとても多い。聞くところによると、2人乗りをしてただ走り回るのがデートらしい。
  ある会社では、三交替制の定時が、@朝5時半〜昼1時半、A1時半〜夜9時半、B9時半〜翌朝5時半というところもあって、日系の会社は日本時間に合わせているところもあると聞く。そのためにバイクが常に走っているとは思われない。まるでどの道からもバイクが湧いてくるようだ。
  道路を横断する時は、少々困る。まず左右反対車線であるし、横断歩道はあるにはあるが誰も一旦停止はしない。もちろん歩行者用信号もない。ではどうして渡るのか。川のようなバイクの流れを、注意深く運転手の目を見てゆっくり歩いて渡るのが最良の方法である。途中で逆戻りもしてもいけない。バイクはうまくすり抜けて走ってくれる。
  ちなみに交通事故死者数は年間1万人を超える。日本と変らない犠牲者である。ところが凶悪犯による死傷事件においては、年間数件しか起こらないそうだ。
  ハノイの主要道路の至る所に「ヘルメットをかぶりましょう」という大きな看板は見受けられるが、ヘルメットをかぶっている人はめったにいない。なぜでしょう。法規制が緩い、暑いため、聞こえない、カッコ悪い、価格が高い、ヘルメットの品質に問題、乗る人の安全意識・・・。
ハノイ水上人形劇で配布していた記念のCD  ベトナム料理のディナーの後は、タンロン水上人形劇へ。入口で来場記念CDを配るサービス。ドル箱興業の出し物である。ホールはほとんどが外人ばかりで、私たちの後の列は日本人、前はフランス人の団体客であった。一人4万ドンしたが、日本円に換算すれば、320円ほどである。
  宮廷芸能として親しまれてきたこの水上人形劇はもともともと農民が収穫の季節に池や湖などで上演していたもので、千年近い歴史を持つ。舞台に作られた小さな池と赤を基調に華麗なセット、伝統音楽に合わせて人形達が多彩なコミカルな動きを見せる。楽器演奏者7人と水中人形を操る9人で進めていく。太鼓、胡弓や鐘の響きが耳に鋭く、心地よくはなかったが、公演中半分は睡魔に襲われていた。
  その劇場の周辺は夜市になっていた。靴ばかりを売る店、ぬいぐるみ専門、カバン専門、バッグ専門、スリッパだけの店などがあった。台北の夜市よりは静かな趣で臭いもない。もう少し時間があって、片言でもしゃべれたら楽しく、ウロウロしたい賑わい場所である。SDカードの1GBが、なんと144万ドン(=約12,000円)もしていた。
  不法建築の家屋と電線ケーブルホテルの陶器の洋式便器は、日本のものよりひと周り大きいものであった。横に便器を洗うハンドシャワーが備えつけてあった。バスタブのシャワーは固定式で、ヘッドだけ方向を変えることができるものだ。バスタブに立ってシャワーヘッドを持って自由に使えるものを完備しているところは、海外では少ない。
  次の日、朝食のあとホテル周辺の散歩に出た。昨日は右へ行ったので、左に行くことにした。相も変わらずバイクは走っている。色とりどりのマスクをして走っている。道路を横断するのもだいぶ慣れてきた。ふと見上げると不法建築の建物があった。日本ではとうてい考えられないことだ。地震がないので柱も細いし煉瓦を積み上げて造る工法だ。
  ブロードバンド・カフェというか溜まり場の店もあった。始めはゲームセンターか何のお店かなと思ったが、若い男女がディスプレイを見ながらキーボードを叩いている。大学生らしき女性もインターネットで調べものをしている。どこの国も最先端を行くのは若者である。
  インターネットは規制はかけられないのが現状だ。世界の情報が瞬時に入ってくる。人間の持つ欲望を喚起して、知らず知らずにグローバリゼーションが浸透していく。ベトナムは30以下の若い人が非常に多いので、加速度的に意識が開放されることになる。
  ガイドさんは盛んに、ハノイには大学や専門学校がたくさんあって「ここは○○学校です」と案内してくれる。高校には社会科学系と自然科学系がある。教育制度は5、4、3制。義務教育は小学校の5年。中学への進学率62%、高校教育30%、大学は4〜6年制で進学率は10%、都市部では50%にのぼる。識字率は93%である。真面目で勤勉な国民である。
タービンの羽根を溶接しているところ(HAMECOで)  HAMECO(ハノイ機械)を訪問した。副社長のヒエウさんと社長秘書のフイさんであった。マイク付でホーチミンの写真が飾ってある応接室に通された。名刺交換の後、説明を聞き、工場を見学させてもらった。
  1958年に旧ソ連の支援で設立された12ヘクタールの敷地面積を持つ。従業員1,000人。技能工は360名。エンジニア150名。
  普通旋盤、NC旋盤、セーパー、ラジアルボール盤、フライス盤を製造するかたわら、産業機械を製造する。汎用工作機械の割合といわゆる鉄工所としての売上比率は2対8で、特殊加工ものの割合が多い。鋳物からの一貫生産工場で、主に製糖工場向けプラント、セメントプラント、水力発電所向けの機械装置などを作っている。ここ2年間の輸出実績は、カナダ、米国、日本、チェコなどで、巨大な鋳造の電気炉も完備されていたし、ダムに設置するタワーのようなものからタービンまで作っている。特殊仕様もので他でやるところがないようにも思われる。
  ベトナムの外資系の企業向けの売上も増えてきていて、日本の住友金属の高炉部品を輸出したことがある。ウェブサイトや商工会からの紹介で営業活動をおこなっている。
  鋳造能力は年間1万2千トン。マザックのNC旋盤も見られた。ロシア製やチェコ製の機械も現役で稼働していて、中国製の機械も設置されていた。工作機械の生産台数は年間200台。主にロシアの設計図をもとに新しい工作機械を計画中でチェコとの技術提携も進めている。
  同社の大きな特長は、企業内に専門学校を持っていて毎年2千人を超える技術者を世に送り出している。専門学校や特殊技能を持っている者を採用しているので、社内での教育はあえてしていない。週48時間労働を実施している。部署に応じては残業や土日出勤もあるとのこと。月給は平均で100米ドル。ボーナスも支給している。
  途中、日本から携帯に電話がかかり、工場の一部を拝見できなかったのが残念である。ホーチミンの胸像が工場の広場にある大きな敷地を持つ工場であった。

4.IMIホールディング会社を訪問     − 若い経営者たち
  昼ごはんは、外国人専門のベトナム・フランス料理店に入った。1階は大勢のフランス人の団体であった。私たちは2階の個室へ。味はアッサリとしていて揚げ物も野菜サラダ盛もある。シーフードも適度にあり私たち日本人の口には合う。お米は少々小さめでパサパサしているが十分にいただける。食後にお茶とお漬け物があればいいと思うが、贅沢な話だ。朝のバイキングも鶏やタマゴはなかったし、丸2日目になるが鶏関係の料理にはお目にかかっていない。肉は牛肉か豚肉、海老といったところで、安心して食事ができる。
  IMIホールディングの若手経営陣IMI HOLDING(産業機械装置)を訪問した。私たちを迎えてくださったのは、フン副社長をはじめ30歳代の4人の若い経営陣であった。皆ドイツ留学経験者で、修士号博士号を取得している逸材だそうだ。このホールディング会社の社長は国会議員をしていて、12の子会社からなる2,000人の会社。年間6,000万米ドルの売上。9つのプロダクトセンターがある。補足研究のトレーニングセンターがあって320人中280人が大学卒である。
  一見学校のような建物には、CADを使った設計室、中身があからさまになったPC箇体やウィンドウズの画面が見える。皆黙々とディスプレイを睨み、キーボードを叩いている。既にVistaというウインドウズのデスクトップ画面があった。マイクロソフト社の開発コードネーム「Longhorn」で呼ばれてきた次期OSである。二〇〇六年に正式リリースされる予定のものが、なぜここにあるのだろうか。
IMIの設計オフィスには2006年に正式リリースのWindowsVistaがあった   ベトナム経済成長には、やはりドイモイ政策に起因するところが大きい。ドイモイ以降東南アジアや世界各地に離散していた中華系流れをくむ越僑が本国に戻って来るようになったことも弾みとなっている。また国営企業が民営の会社と統合、グループ化するようになってからは自由に商売ができるようになったと言われる。
  何と言ってもベトナムの最大の魅力は、国民が若いことである。日本の年齢の中央値は41.3歳、中国は30.0歳、ベトナムは23.1歳と非常に若い。街に活気溢れているのはそのためだ。30歳までの若者が実に多く目立つ。人口構成を見れば、0〜14歳:33%、15〜64歳:61%、65歳〜は6%で、日本は15%、68%、17%、中国は25%、68%、7%となっている。とはいえ、昼間から道端で何もせずに座っている若者もいるし、喫茶店で話しているもの、ゲームセンターでやボーリングを楽しんでいる若者もいる。表情は、どの顔を見てもハツラツとした明るく豊かに見える。私たち日本人のほうが無表情で悲観的に見えてしまう。中学生や高校生も胸を張って歩き、はしゃいでいる。
  実に好奇心溢れる若い国に称賛を送りたいが、65歳以上が6%というのは今だけのこと、医療のインフラが整ってくると日本と同様に高齢者の割合が増えてくるはずだ。予想統計によると、2050年には65歳以上の割合は18%にのぼる。その時日本は、実に36%となっている。

アジア各国の年齢中央値
日 本 香 港 シンガポール 台 湾 韓 国 中 国
41.3 36.1 34.5 32.1 31.8 30.0
タ イ インドネシア インド ベトナム フィリピン カンボジア
27.5 24.6 23.4 23.1 20.9 17.5
 (http://dataranking.com/ 経済社会データランキングによる)

  環境汚染の問題は、日本からアジアへと移行してきた。ベトナムの23歳という若さは産業に対しても前向きであるし、消費に対しても貪欲である。日本にもいわゆる「エコノミックアニマル」と言われた時代もあった。私たちはただ勤勉に働いただけであるのに世界には、異様に映ったようだ。ベトナムにとって環境問題や食糧問題など、これから正面から取り組まねばならない問題がある。欧米は、今以上にベトナムに対して省エネや環境汚染などを要求してくるだろうし、アジアを標的に食糧獲得戦略を展開してくるだろう。
  HAMECOにしてもIMIにしても、経営者の年齢が非常に若いことは、輝かしい可能性を秘めている。一挙に個々の能力が成熟し、企業においても施策を実行していく姿が目に浮かんでくるが、営利を目的とした経済活動と中央政府・共産党との温度差が如実に現れてくるはずだ。穏やかな国民性であるゆえに天安門事件のようなことはないだろうと懸念を禁じ得ない。
  中国での国営工場や元国営の工場では、応接室では年配の方々がずらーと並び、食事付の訪問を提案するといったものもあったが、ベトナムの面談者の方々は人数が少ない。その現象を比べるだけでも、国家体制が厳しい国と比較的穏やかな国との違いがよく解る。
  20年前の中国視察では、私たちはにわかに造成された道を歩いていたにすぎない。工場視察を終えて外へ出たところ、休憩時間でもないのに先程まで旋盤を回してした職人が外に出てきて屋台で物を買っていることもあった。私たち一行がどの順番で工廠を回るかはシナリオが決まっているのだ。ベトナムではそんなことはなく、本社工場とIMIの協力工場まで案内してくださった。ベトナムではスカートの女性は珍しい、軽トラックの男性もサイドミラーで見ている

  こちらはサッカーがとても盛んである。今日は東南アジア大会のベトナム対ラオス戦がある。街の喫茶店や電気屋では、サッカーのテレビ放送を見入っている。これに勝つと次の相手はミャンマーだそうだ。ベトナムはタイに続く強豪で、前の大会で準優勝をしている。街にはスポーツ専門店もあって、バドミントンやサッカーの店が繁盛している。
  ベトナムでは男女ほとんどが、ズボンスタイルである。女性のスカート姿にお目にかかるのは珍しい。アオザイはベトナムの90%を占めるキン族の民族衣装で、バイクに乗ったり仕事には不便なので、お正月や祭礼など特別な時の服装になっている。白のアオザイは女子校生の制服になっているが、最近はスーツも増えているそうだ。男女ともシャツとズボンが一般的で、若者はジーンズとTシャツが圧倒的に多くおしゃれなビジュアル系も見られる。アオザイを着た女性は、外国人相手のレストラン、みやげ物屋で見ることができた。
  夕飯も外国人専門のレストランだった。食事が進んだ頃、民族楽器を持って日本のヒット曲、北国の春と四季の歌を演奏をしてくれた。その後、民芸品を売りに来るという、いわば観光客相手のお決まりのコースである。外人向けのレストランは、明るく清潔である。英語はもちろんのこと日本語、フランス語をしゃべれるウェイターやウェイトレスを揃えている。
  昼夕ともに2回ずつ4箇所で食事をしたが、感じのいいレストランであった。民族衣装アオザイを着たウェイトレスで、部屋にはベトナムの風景画や人物画が飾ってあるし照明の使い方も行き届いている。
  ハノイの最後の夜、舟橋さんの部屋に皆が集まって、ワインとウィスキーを飲みながら反省会が始まった。内容はほとんどない。ベッドで横たわっている者、雑談をしている者。と思うと、テレビをつけて日本のニュースを見ている。琴欧州が勝った負けた、朝青龍が年間最多勝かどうか云々、広島の女児殺害事件のニュースなど、NHKのBSで送られてくる。世界は狭くなったものだ。


11月23日のVietNam Newsのスポーツ欄一面の記事 5.大都市サイゴン − 戦争証跡博物館
  きょうは移動日である。ハノイから1時間45分かかってホーチミン市のタンソンニュエット空港に到着した。VN217便A320は予定より30分も早く着いた。南北に1,600kmもの長い国である。「暑い!」ジワーッと暑さが堪えてくる。北部では亜熱帯気候で一応の四季はあるが、ここ南部は熱帯モンスーン気候で、只今の気温31℃である。今は雨季の終わりらしい。蒸し暑い!
  ホーチミンの街並を目で追ってみる。相変わらずバイク、バイク、バイク。道路はハノイに比べて舗装が行き届いているように感ずる。埃っぽくないといったほうが状況に合う。服装が華やかで、店先の飾りつけも看板も派手なイメージである。

  ガイドさんの案内で、ホーチミン市内を案内してもらうことになった。きのうのサッカー、ラオス戦でベトナムが勝ったので、昨夜は騒ぐ若者で溢れかえっていたそうだ。次はミャンマー戦で、勝っても負けても暴走族が出るかもしれないそうだ。
  まず、ベトナム戦争証跡博物館を訪問した。入口横の1975年4月30日が戦勝記念の大きな赤い看板の前で写真を撮った。ベトナムではこの戦争を「抗米救国戦争」と呼んでいる。戦闘機や戦車などが所狭しと展示してある。アメリカ兵の無惨極まる行為や残虐な屍などの写真パネルも掲示されていた。実に悲惨な戦争であったことがうかがえる。
4月30日は戦勝記念日となっている。ベトナム戦争証跡博物館の前で(筆者)  1995年、アメリカ元国防長官ロバート・マクナマラがベトナム戦争が「間違った戦争」であったと回顧録で告白したことは衝撃であった。
  実にベトナム戦争は複雑極まる戦争であった。第一に南ベトナムの内戦、第二に南北ベトナム間の戦争、第三に米ソの代理戦争である。外から見れば、南ベトナムのサイゴン政権と解放戦線との対決の背後に、自由主義のアメリカと共産主義の北ベトナムが存在した戦争である。ベトナムから見れば、植民地支配から解放、1945年に独立宣言をしたにもかかわらず、中英仏露米が介在し、ベトナム民族の国家統一が20年も先延ばしになった上に、国が焦土化したことは、ベトナムの悲劇というしかなかろう。ベトナム民族のねばり強い国民性はそこから来ているのでしょうか。
  2001年9・11同時多発テロ以降、アフガニスタン戦争と続き、いまだにビン・ラディンを始め犯人は捕まらない。さらに2003年3月に起きたイラク戦争は「正義の旗」の下、アメリカがイスラエルの顔色を見て仕掛けた戦争であるが、未だに終結せず「ベトナムの亡霊」が復活したような気がする。日本もタイミングと理由を考えて撤退をしておいたほうが得策のように思う。
  今や脅威という弾圧の手段として軍備が残るだけとなって、武力侵略の時代は過ぎ去ったように思う。そして欧米先進国の経済・金融侵略により生活様式は数段便利になったが、追従した国は本当に発展したのでしょうか。自然は壊され伝統は飾り棚に置かれたまま、古いものを破壊し新しいものにやり変えることは、ただ変化しただけにすぎない。
サイゴン聖マリア大聖堂   「グローバル」「世界は一つ」「新社会秩序」という言葉はどことなくいい響きに聞こえるが、テロ行為にも匹敵する他民族の存在を認めない世界侵略の合言葉にほかならない。グローバリゼーションに名を借りた文化侵略は、人格を無視した一番卑劣な侵略ではないだろうか。
  今回の視察では、業界の展示会やフェアの視察がなかったのが少々もの足りないところだが、ベトナム戦争証跡博物館の展示は、何よりもまして世界の事柄を気づかせてくれ、私にとって極めて感銘的なものになった。
  ホーチミン市の中心のサイゴン大聖堂。別名「聖母マリア教会」とも呼ばれる建物は19世紀末フランス統治時代に建てられたものだ。キリスト教の布教を口実にフランス出兵をした象徴的建造物だ。マリア様の前では、信心深く唱える姿があった。
  その横の道路を隔てた向かいには中央郵便局の美しい建物がある。同じくフランス統治時代に建てられたもので、内部も非常に美しい。欧州の鉄道の駅のようなたたずまいだ。その郵便局では切手やハガキを売るだけでなく、手紙を書く場所まで提供している。記念にベトナムの観光絵葉書を買い求めた。
中央郵便局。書簡をしたためる利用者   それにしても団塊世代にとってはホーチミンは人名で、都市名と結びつかずピンとこない。ソウルがある日突然にキムジョンイルという名前になるようなものだ。ホーチミンの生まれは中部であるが、サイゴン陥落の作戦名がホーチミン作戦であったゆえに、サイゴンがホーチミンと改名された。南の人たちは占領されたイメージがあるので、ホーチミンとは呼ばずにサイゴンのほうが馴染み深いそうだ。
  そういえば「ミス・サイゴン」というミュージカルがあった。昨年亡くなった本田美奈子がキム役で出演していたベトナム女性とアメリカ兵の悲恋の物語である。そのミュージカルが大ヒットしたおかげかどうか、ベトナム女性は世界一の働き者だそうだ。
  近年は結婚手続きが簡単になったため外国人との国際結婚も増えてきていると聞く。ベトナム人女性と日本人男性との結婚も例外ではないらしい。近年日本人女性観光客が増えるに従い日本人女性とベトナム人男性の結婚も増え始めているそうだ。「西洋風の家に住み、中華料理を食べて、日本人の奥さん」というのがベトナム人の理想だそうだ。
  また急速な経済発展と国際化の進行に伴い、大家族から核家族化が進行し、離婚や不倫なども徐々に増加しつつある。
  足裏マッサージを30分だけしてもらって、有名な繁華街ドンコイ通りを歩いていると、小学生の女の子が私たち日本人を見つけて、ベトナムの名所の絵葉書を売りに来る。郵便局で買えば2セット1ドルのものを「10枚もあるよ、2ドル」と可愛い声で言う。バイク、バイク、でいっぱいの交差点を渡ってまでもついてくる。しつこいというよりも、根気があって、熱心だ。大国アメリカを相手に、ゲリラ戦で勝っただけに粘り強い。中国人のお土産売りとは少々異なる。その顔に悲壮な様相はうかがえないのは、ベトナム人の国民性なのでしょうか。


6.中小企業の現地工場     − 10億ドン金持ち
  鉄道のインフラは実に貧弱である。ハノイからホーチミンまでは32時間かかる。1,500〜1,600kmということは青森から九州までの距離に相当するが、軌道が単線の上1時間に1本程度らしい。せめて複線であれば特急が走ることができる。
バイクの信号待ち(ホーチミン市内)   そういう点でトラック輸送にたよるしかないのが実情であるが、旧市内は道路が狭く大きなトラックは入れない。聞くところによるとカンボジアへ通じる道路は片側8車線の広さらしい。
  道路のインフラは整備されてきたものの、ホテルでのブロードバンド環境は、もう一つというイメージを受ける。LAN端子はついていてパソコンも認知をしているが、そこから先の設定がどうもうまく行かない。上海、大連、北京、台湾などでは、アドレス設定を自動にすれば、アクセスできたが、ホテルのフロントに問い合わせてもそこのところは知らないようだ。もちろん私自身の英語のレベルがもう一つであったかもしれない。
  携帯のローミングは、場所によってはうまく電波を拾えないところがあるが、比較的スムースに作動している。携帯電話を持っている人は、中国ほどあまり多くは見かけない。ノキアとサムスンの看板がやたら多い。ノキアショップで最新型の価格を聞いてみると、780万ドン(約62,000円)もする。給料半年分以上の値段だ。
  ハノイもホーチミンのガイドさんは必需品であるので持っていたが、メールやカメラ、スケジュールなどの機能が付いていない電話だけの携帯であった。

  アジア各国の携帯電話と固定電話の加入者数(100人当り)
  香 港 台 湾 シンガポール 韓 国 日 本 中 国 ベトナム
携帯電話 114.5 100.0 89.5 76.1 71.6 25.5 6.0
固定電話 56.6 57.4 46.2 48.6 47.7 16.7 4.8
 (http://dataranking.com/ 経済社会データランキングによる)

  外国人に対する警戒心や日本人に対する反日感情は、全くない。これは91年の政府方針の全方位外交によるもので、中国と国交正常化、95年にはアメリカと国交正常化、ASEAN加盟、98年APEC加盟など、ベトナムの国際的立場は、ここ15年で一気に好転した。
  バスの窓から外をながめていた時、現地人と目が合うことが何度かあった。ほとんどの人は「ニコッ」と顔がほころぶ、実に人なつっこいのだ。先の戦争で被害をうけたベトナム民族が、自らのアジアンパワーに目覚めて欧米化にどのように抵抗し排除していくかは、これからの直面することになる。大東亜共栄圏ではないが、私たちアジアの先陣として、何か役に立つことができればと思う。
中小企業の地場鉄工所、トタン板を製造している   VAN DAT THANHを訪問した。工場の奥に、奇麗な2階建の自宅がある。工場と自宅の庭に番犬を2匹飼っている。自宅兼事務所のミーティングルームに通され、各自にミネラルウォーターが並べてあって私たちが来るのを迎えてくださった。部屋にはベトナムの民族衣装を着た子供さんの写真が掲げてある。小学生の男の子2人だ。若い社長自ら応対していただいた。
  1996年に会社を設立して独立したトタン屋根材を加工しているメーカー。お客さんの仕様に合わせた波板に加工している。資本金は自分が百パーセント出資、独立以前は鋼材やトタン材の販売会社に勤めていたそうだ。
  ロール材の材料はロシアやウクライナ、韓国から月平均500トン輸入している。年間6千トンになる。事業所は2箇所あって従業員は80名、この工場には30名いる。機械は台湾製で一部ベトナム製の機械を使っている。独立当初は50〜60億ドン、2005年は約3倍の150億ドンの売上になっている。販売先は、建築業者、代理店、直接ユーザーに販売している。新しい客先には百パーセント現金での取引きをしているが、従来のところは60日後に決済してもらっている。材料は、トン当り500米ドルで仕入、製品は厚みによっても異なるが定尺一枚当り10〜30万ドンで売っている。
  10億ドンを稼ぐことができればベトナムでは金持ちの部類に入るらしい。年間約800万円の給料を目指している。それにしても、通訳のミスか私の聞き間違いか、年間の材料仕入が、6千トンでトン当り五百米ドルで計算すれば、仕入だけで450億ドンを超える。社長の言われるところの年間売上150億ドンと辻褄が合わない。
  300坪ほどある材料倉庫と加工場と、製品置き場が一緒になっている工場は、所狭しとものが置いてある。錆びた材料などは処分すればいいと思うが・・・。自宅は2階建で9部屋あるとのこと、価格は10億ドンしたと言われる。平均月収の千倍以上になる。実に御殿である。
私たちが宿泊したサイゴンオムニホテル。日本料理店も民芸売店もある   社会主義の国のほうが貧富の差が大きく、民主主義の日本のほうが社会主義化しているような気がしないでもない。日本人はかつて働き過ぎであるというレッテルを貼られ、世界一休日の多い国になってしまった。世界で屈指の豊かな国になったと言われているが、その豊かさを実感できない国になっている。2倍3倍の所得格差が当たり前でなくなり、平成の時代になってますます平準化が浸透してきた。金持ちであった人が金持ちでなくなってくると、若い世代の向上心が薄れ、持つべき道徳心・倫理感・責任感に影響が出てくるのではないかと思う。少子化現象もそのひとつではないだろうか。
  百貨店の上のレストラン街で昼ごはんを食べ、次いでに最上階の食品スーパーも見物、百貨店の中も時間までウィンド・ショッピングをすることになった。上海や台北のショップにはヨーロッパの有名ブランド品がならび、それらのコピー産業も後が絶えない繁盛ぶりである。銀座や心斎橋にも有名店が軒を連ねる。今やブランド品が世界標準品であるかのごとく錯覚に陥っている。実にアジアにおける滑稽な現象ではないだろうか。
  サイゴンの一流百貨店にも、同じようにブランド品がショーウィンドーにならぶ。そしてブランドのコピー物は、日韓台専門の土産物屋にならんでいる。こんな社会現象は、アジアンパワーでも何でもない。本当のところ有名ブランド品を仕立て上げアジア市場に売る商売を思いついただけのことである。冷静に考えれば理解できることだ。ブランド品ではなく、本物のいい物を見る目を持ちたいものですね。

三谷産業オレオCSD事務所

7.三谷産業のオレオを訪問
        一足飛びの発展の可能性
  ホーチミン市の中心街のサンワタワーの19階に三谷産業株式会社の子会社はあった。阿戸氏とオレオCSDの金山氏が応対してくださった。
  1993年からベトナムに合弁法人として進出、駐在事務所を設けていてベトナムでは古い企業だ。本社は金沢と東京、名古屋の証券取引に上場している。すべて日本向けの輸出する会社でベトナムでは販売していない。つまり日本にとって仕入と加工専門会社となる。ベトナム人は手先が器用なので、機械加工に頼るものをこちらに持って来てもメリットはあまりない。ハノイ工科大学との共同研究もやっていて、売上は10億円。
  ホーチミンには商工会に加入している会社は260社、3,000人の日本人が居る。ハノイは200社、1,700人。韓国系は日本の10倍の規模で、アパレル、衣料品、飲料の企業が多い。総じて国民のアベレージが高い国、勤勉であるが自分だけ目立とうという国民性ではなくマネージャークラスは育ちにくい土壌である。しかし自分のスキルアップには時間を惜しまない。従って残業はしたがらない。治安はマレーシア、中国に比べてましで、殺人事件は極めてすくない。平均賃金は、月に300米ドル、ベテランで500ドル。と、阿戸さんはプロジェクターで丁寧に説明してくださった。
  19階からサイゴン川を望むCSDの金山さんの会社は、建築ソフトウェアCAD関係の開発を行っている。本国から依頼を受けてこちらで図面を仕上げる作業を行うのが、主な仕事だ。ハノイに5名、ホーチミンに62名(エンジニア)が居る。
  本国とは国際専用回線で繋がっており、たいへん便利である。日本の単価の5〜60%で対応しているが中国の方が安い場合もある。品質に関しては弊社の方が上だと自負している。実際に現地で日本人のコントロールが出来る出来ないは、たいへん大きい。祝日は年間4日しかなく少ないので、日本の連休前とか、休み前の対応は、ベトナムで十分に出来るのが強みだそうだ。

  ホテルに戻ってパッキングの最終チェックをしていると、凄い雨音が聞こえる。大粒の雨が降っている。「スコール」とはこのことか!バスに乗ってレストランへ向かう間も大雨で、道端は川のように流れている。流石にオートバイは軒先などで雨宿りをして、鳴りを潜めている。
ベトナムならではのB52カクテル  ベトナムは、中国のように大国ではないのでまとまりがよく政治的にも社会的にもより安定しているように思う。書記長は北部、大統領は中部、首相は南部より選出して安定を保っているし、仏教徒(大乗仏教)が80%、キリスト教10%、民族はキン族(越人)がほぼ90%、中国系が3%、ほか53の少数民族が存在する。イスラム教徒や道教徒がごく僅かであるが活動している。1963年南ベトナムで仏教徒弾圧が起きたとき、僧侶が焼身自殺した事件は今も脳裏に焼きついている。
  ホーチミンは560万人、ハノイは300万人で、2つの大都市を合わせて全人口の一割強を占める。ソウルは全人口の4分の1、バンコクやジャカルタは5分の1が集まっていることをみれば、ますます都市へ集まってくることになる。
  ベトナムの都市化は、北部のハノイと南部のホーチミン、直轄都市として他に北部のハイフォン、中部のダナンで、これらの都市は、外国からの投資が集中して工業団地や輸出加工区を抱えている。 特にホーチミンやハノイは農村から都市への人口流入が加速している。豊かさを求めて、都会の移動先の親戚や知り合いなどの「つて」を頼って街に出てくるのである。移動者は経済発展の推進力ではあるにも関らず、移動してきた者すべてが安定した社会的地位を得るわけでもなく、都市部では盗難、賭博、麻薬といった社会病理も深刻化している。さらに都市近郊と農村、またキン族と少数民族の間の経済的・社会的格差はますます顕著になってきている。どのように地域間や民族間の格差を是正していくかは、これからの大きな課題である。
  しかしながらベトナムには一足飛びの発展をする可能性がある。中国ではポケベルを経験せずに携帯電話が普及し、上海でリニアモーターカーを実用化してしまった。日本は大家族から核家族社会になって、今や携帯電話の普及で個人中心になっている。ベトナムは核家族を飛び越えていきなり個人にスキップしてしまいそうな気配である。
  日本は外圧と戦いながら欧米文化と融合しながら徐々に受入れて来た百年以上の歴史がある。中国においてはここ30年ほどですべてを受入れ、政治と経済においては修復困難な「ねじれ現象」を起している。
中学校の前にはおやつを売る物売りが来ていた   社会主義国のベトナムは、それよりも数段速いスピードの欧米化をどうように受入れていくかが最も大切な政策課題である。自らの文化をダイレクトに持ってくる不器用なやり方しかできない欧米よりは、日本発のリミックスされた近代化のほうが受入れやすいことに間違いはない。便利なものは取り入れればいいが、アジアン発想で粘り強く独自路線を進めて欲しいものだ。
  BRICs(ブラジル、ロシア、インド、チャイナ)の台頭も目を見張るところがある。しかしどれも大国であり、民族や政治の安定性ではベトナムのほうが勝っている。鳥インフルエンザの禁止規制では、国の信用をかけて実施していたことからも理解できる。
  ベトナムを訪問して、零細企業でも戦い方によっては大企業に勝つことも可能であると痛感した。なぜならば圧倒的な戦力の差があったベトナム戦争、巨象に立ち向かったアリが、その巨象を追い出してしまったからだ。それは自分たちの国ゆえに勝つことができたのだ。
  2005年度の日本政府の対ベトナム政府開発援助(ODA)の金額は初めて1千億円を超える。日本のODA相手国として中国を抜き、ベトナムが第3位になることは確実視されている。まさに”蜜月”の日越関係である。ベトナムは、これから10年はGNP7%以上で成長を続けること間違いはない。国民が穏やかで、勤勉で、何事にも熱心に取り組み、若い国ベトナム、日本にとって脅威となる国になるだろうと、確信した視察でした。(完)

(あとがき)  この視察は平成17年11月20日から5日間の予定で実施されました。一緒に同行された方々をはじめ現地で頑張っている邦人の方々に敬意を表し感謝いたします。ベトナムの方々にも、同じアジア人として、学ぶところがたくさんありました。またいろんなことを教わり、気づきました。最後にこの手記を編集するにあたりまして、同行されました商経の舟橋さんをはじめ、プレス・スタッフの皆さん、ご愛読くださいました皆様に、心からお礼申しあげます。

<参考文献>
巨大化するアジアを読む 大薗友和(講談社)
『アジアン』の世紀 亜洲奈みづほ(中央公論新社)
現代ベトナムを知るための60章 今井 昭夫・岩井 美佐紀(明石書店)
ビジネスガイド ベトナム 池部 亮(日本貿易振興会 )