1.スマートに変身を遂げたか、中国! −慢性的な水と電力不足
昨年9月から入国ビザが不要になり、中国への垣根が低くなった。SARSの影響で観光客が著しく減ったためと言われているが、今回の視察は、以前とはちがって、発展途上の活気ある中国を見るべく、商工経済新聞主催の中国視察ツアーに参加した。
大連と北京の2都市を訪問するのは、実に11年ぶりとなる。大連は2回目、北京は3回目となる。10年ひと昔というが、どれだけ様変わりをしているのだろうか?視察ツアーに参加してチャイナ・トレンドを探ってみたいと思う。
水不足の中国、電力供給が不安定な中国、貧富の差がひどすぎる中国・・・と、実際に中国を体験した自らの感覚と、マスコミや友人から入手した情報が、頭の中で交錯している。また、中国と実際に取引きを進める上での、成功談や失敗談なども自分の目で確かめてみたいと思うし、中国気質にも触れてみたい。幸いにも数社の日系企業を訪問するので、そういう所を学べるだろうと期待に胸をふくらませる。
視察第1日目、大連空港から市内へ続く道路は整備され、拡張され舗装されていた。埃っぽさが少なく感じられる。高層アパートが建ち、洋風の住宅も目に入ってくる。夕方の市街地では、仕事帰りのワーカーが、家路に急ぐ。自転車や単車もそこそこ見うけられるが、トラックよりも乗用車が増え、自家用車の多さにビックリしてしまう。実に活気溢れる街、発展途上の街である。車窓から見える大連の街並みもたいへんきれいになっている。道も広いし歩道もよく清掃され整備されている。
道行く人々の服装もたいへんカラフルで、大股でハイヒールを履いて歩いている女性。中山広場前の交差点には、抜群のスタイルの女性のおまわりさんが交通整理をしている。ガイドの楊さんの説明では、容姿端麗、頭脳明晰、顔スタイルは勿論のこと学歴も申し分なく聡明な女性だそうだ。ここ大連は中国一美人の宝庫で、ミスコンの優勝者は大連の女性がほとんどで、それに向けた専門学校も存在すると言う。
大連の人に聞けば、大連の言葉が標準語で、美人が一番多いと言う。ほとんどの中国で、中国人は「自分が住んでいるところが一番である」と言う。上海人は、上海以外の地域や人を褒めないし、上海が何でも一番だと言う。全て「オラの村が一番だ」と主張する。
このツアーでも、大連のガイド楊さんは「皆さんが、北京で泊るホテルよりは、ここ大連のスイスホテルの方がいいホテルです」と言う。また北京のガイド李氏は「皆さんが泊られた大連のホテルより、北京のホテルのほうがグレードが高い」と言う。
こういうところが、中国人気質ではないでしょうか?
端土酒店大連(スイソテル大連)は、立派な素晴らしいホテルであった。ロビーは8階、私の部屋は24階にある。ロビー、エレベータホールも申し分のない広さで、廊下は真っ直ぐで広く、部屋の造りも落ち着いた雰囲気であった。ブロードバンド環境は、電話線を利用すれば快適に繋がる。しかも電話料金も安価であった。テレビはNHKが入る、しかも1chである。大連市長がたいへんな日本贔屓だそうだ。
窓からは大連駅が真っ正面に見える。日本の統治時代に上野駅の姉妹駅として建てられた駅である。雰囲気は似ている。
ロビー階にある朝食レストランは、垢抜けしたバイキング形式のレストランであった。ウェイトレスやウェイターの動きがきびきびとしていて、中国語はもちろんのこと、英語と日本語を瞬時に切りかえて応対する様に、ホテルの教育に敬服する。ロシアの影響でパン類はとても美味しい土地柄で、味も申し分ない。コーヒーのおかわりサービスにも、苛立ちは感じさせなかった。
1993年5月、当時はまだ国営企業が幅を利かせていた。大連機床廠や大連鍛造廠など国営の会社を訪問したが、鋳造加工、木型金型加工、切削加工、組立、検査まで、すべてが一貫生産であった。郷鎮企業と呼ばれる民営的な会社(学校や村で資金を出し合って経営する)が出てきて注目され出した時期でもあった。天安門事件後、「市場経済!市場経済!」に移行していく走りの時だったと記憶する。スカートやスパッツを身につけている女性が、ファッショナブルに見えた時でもあった。
日本の視察団が来ると言えば、私たちはVIP扱いで、至る所で特別扱いを受けた。北京駅では、並んで待っている大勢の中国人の鋭い目を気にしながら、特別寝台車に乗り込み、瀋陽駅の改札出口では、駅の係員が、中国人たちを押しのけて優先的に通してくれた。それは当然と言えば当然のことで、私たち一行は、中国のそれなりの国営企業や公共機関が招聘し国家が許可した外国人であり、特別待遇は当たり前で、四六時中、国の職員が監視役として随行していた。
一方、外貨を獲得するための国策はすごいものであったと思う。兌換券を外国人専用の貨幣として渡され、一般のお店では、兌換券で品物を買うことができずに、無下に断られたこともあった。私たちは、決められたレールの上を行列も乱さず歩き、レストランでは決められたコース料理を食べ、みやげもの屋では惜しみもなく兌換券を遣うという、主体性のない「視察付き観光客」であった。
自らの判断で自由に行動することなどは、帰国する前のわずかな数時間を許されるのみで、ほとんどは、ガイドと称する国家公務員の監督下にあった。
それから11年が経て、どれだけ中国がスマートになったか、変身を遂げたかであるが・・・。
直面する国家レベルの問題は、慢性的な電力不足と水不足をどのように解消していくのかである。実際に豊かな生活をしている人口が3億人ほどのときはいいが、生活レベルが上がってくるとどうしても電力と水の消費は増えていく。まだ無電地域の人々が2億人もいるとも言われている。黄河流域の水不足にどう対応し、北京に迫りつつある華北の砂漠化をどうくい止めるかも大きな問題でもある。ダムを建設して灌漑治水事業をし、発電にも寄与、揚子江から北京までの2千キロメートルに及ぶ運河計画も浮上、すぐにでも施策せねばならないことは山積みなのだ。
2.大連のローカル工場と日系企業 −KVK・ヤマタケ
視察第2日目、午前はローカル工場を2社、午後は日系企業を2社を訪問した。私は、午前の視察を楽しみにしていた。というのは11年ぶりに、チャオ氏に会うことができるからだ。11年前、貴紙の中国視察に参加した際、チャオ氏が、瀋陽と大連の工場を案内してくださった。当時は、貿易商社に勤める30前の若き商社マンであったが、今は独立し、工場などを持つ貿易商社を経営しているという。
昨夜、一緒に食事をする予定であったが、ちょうど第二子が産まれたとのことで来られなかった。「一人っ子政策」の中国ではあるが、どうしても欲しい家族は、チャオ氏のように罰金を払う覚悟で、頑張る夫婦も存在するのだ。実際にどれくらいの金額の罰金が課せられるかは、判らないと言われる。
チャオ氏の案内で訪問したローカル工場は、プラスチック成形の工場とバルブや鋳物部品の工場の2社であった。人海戦術での生産は納得できるが、ただただ生産をするだけで、それぞれの加工に粗雑さがみられた。バルブ工場では、日本でも見るブランドの素材や加工品があって非常に興味深く視察することができた。
プラスチック成形の製品にしても鋳物の製品にしても、簡単な部材においては、日本の市場で通用できるのではないかと判断できたが、工程におけるチェック項目をすべて書き出して、特に検査手順のポイントなどを綿密に打ち合わせすることが必要であると思った。日本向け100%ということだが、実際には、検査の厳しい日本には、素材や部品などはまだいけそうであるが、完成品や金型の輸出はまだまだ無理なように感じる。
気がかりなところをあげるとすれば、バルブの水圧検査機は、油圧作動の門型挟込み式の検査設備ではなく、手動式の古い型であった。バルブを検査機の上に乗せ、ボルトで止め、エアー圧をかけて検査をする簡単なもので、非効率なものであった。「バルブ検査も必要があればできますよ」といった感じで、人件費が日本の20分の1であっても、1台ずつ取付けて本体検査と弁漏れ検査をしているとは考えられない。
また金型工場では、マイクロメータ等の測定工具の検査設備が整っていないのは、検査は下請けに出していると言われる。企業分業制が進みつつある中国産業界ではあるが、材質成分検査を試験場に依頼するのは判るが、寸法検査を外注するのは理解出来ない。
昼食後、日系企業がたくさん集まっている経済技術開発区にある2社を訪問した。まず、大連北村閥門は、こちらに進出してきて14年になり、完全に軌道に乗っている印象を受けた。単水栓をはじめ混合水栓、レバー付水栓を製造する。本社工場のKVKと大連KVKの連携がうまくいっていて、99%を日本へ輸出している。わずか1%が中国国内向けだそうだ。
鋳物工場は、整理整頓が十分にされていて、鋳込や成型もフル回転操業のようでした。モールディングマシーンは、1人1台ではなく、常時2人が付いていた。1人が型を込め終えると、次の者が型込めを始める。非常に効率よく考えられたシステムであると感じた。切削加工場でも、不良品が発見されると、その場で不良品をピックアップし、以後ラインには流さない基本的な考え方が浸透されていた。
どのラインの説明者も同様のことを説明されるので、その点が管理ポイントであると理解できた。中国では、不良品であると判ってもそのまま加工を施したり、組み立てる際、部品が余った場合、平気でその部品を隠したり捨てたりしてしまう。その反対に、足らない場合は、そのまま組み立てずにほったらかしにして、といったことが日常茶飯事であると聞いたことがある。しかも言い訳けや他人のせいにすることは、中国ではごく当たり前のことだそうだ。
KVK大連でも、そんな経験を経てここまでの企業に育てられたことは、敬服してしまう。社員同士のおしゃべりもなく、日本の工場をそのまま移転してきたような錯覚を覚えた。
同じ開発区にある山武儀表は、大連で生産を開始して9年になる。中国国内向けが15%、輸出が85%。中国向けは完成品での販売で、主に日系ユーザーへ納入している。いずれは現地法人への販売も考えている。日本向けは半製品での出荷が多い。生産は、工業自動化向けの自動バルブ、建築用自動バルブ、スイッチが柱。工場は、加工組立工場のみで、素材の鋳造工場はない。外注の鋳物工場から入ってきた減圧弁の本体も受入検査待ちの状況であった。加工するバルブの品種が多く、少数ロットにも対応できる技術レベルの高いベテランワーカーが見受けられた。KVKさんと全く路線が異なるイメージであった。 一般に中国の北の人のほうが真面目な人が多く、鋳物も北の方が信頼できるそうだ。深川にも山武の工場があって、横の連絡があってのことなのか、一般論でそのような結論づけるのは、少々危険な判断だと感じた。
マイクロバスでの移動中は、必ずガイドさんは説明することになっているらしい。大連の郊外には、高層アパートが建設中である。海水浴場の近くには、横浜のインターコンチネンタルによく似たリゾートホテルも建設中だ。大連は非常に住みやすいと言われるが、冬の寒さは厳しいらしい。海産物は新鮮で美味しいし、農産物も旬のものを食べることができる。
郊外の道路の脇には、籠やバケツに「さくらんぼ」を入れて、農家の人たちが列になって並んでいる。座っている人もいるし、呼び込みをしている人もいる。一家総出で「さくらんぼ」を売っているのだ。
農家の生活レベルは、都会ほどには向上していないイメージを受ける。夕方になればリヤカーにいっぱい野菜を積んで街へ売りに行く姿も幾度となく見る光景である。かつては、収穫物を満載して馬車で運んでいる情景も懐かしく思い出されるが、都会化されるにつれ、農業に従事する若者も少なくなってきているのでしょうか?
夜、ガイドブックに必ず載っている天天漁港というレストランで食事をした。海鮮料理が主体で日本語も通じる。確かにあっさりとしていて魚がたいへん美味しい。お昼、お世話になったチャオ氏も同席していただいた。
視察も慣れてきた私たちは、ガイドの李氏、チャオ氏も一緒に全員でラウンジへ行くことになった。11年前は、日本式のラウンジやスナックなどは全くなく、お酒やウィスキーを飲むなら、一流ホテルのバーラウンジしかなかった。今、ホステスのいるラウンジに来ることができる。大連も変わったものだ。
私の隣にチャオ氏が座り、私はあの時と同じ曲「乾杯」を唄った。当時の写真を1枚だけ持ってきたが、お互い太めになった姿に一喜一憂し、時空を超えて再会できた有難さを改めて噛み締めていた。
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