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哀れむやさしい言葉

   「勝者が敗者にやさしい言葉をかける」、「弱きを助け強きをくじく」は、ごく当たり前ののことと思いますが、単純に、弱者を善人、強者を悪人と見るのも、早計、オカシナ話で、弱いものを偏愛することにもなりかねない。そのために、強いものを憎んで、これに刃向かう土壌をつくってしまう一面がある。

 また身体障害者を特別扱いにして「身障者だから仕方がない」、「幼い子供だから仕方がない」と甘え体質を育つように接するのは、良くないと思う。こう言えば、この人は○○をしてくれるし、あの人は○○を手伝ってくれる、と悪い知恵を付けさせてしまう。身障者の方の中にも、その誤保護を受けて、心が荒んでいるように見える人もいる。

 息子が50を過ぎても、親は子供のように扱うように、何か憐れみを持って上からしか、見ることができないのは不幸なことです。下で施しを受ける側で、健全な心の持ち主ならば、私は不自由だけれども、これならば十分にできる、という人も居る。それをすべて特別扱いにしてしまうことは、人と人のお付き合いとしても良くないことだ。

 自分をないがしろにされ、一人前に見てくれなかったことは、永く凝りが残るはずだ。差別をされた感覚とよく似ている。気遣う気持ちは理解できるが、ワザとらしい慰めは人権無視につながり、屈辱にほかならない。いつの間にか、強い者に抵抗し歪な反抗心を持ってしまう。

 しかも、そのやさしい言葉は、往々にして一時的なその場の感情から出ることが多いもので、相手の成長を鑑みて、冷静で落ち着いた理性から生まれたものではありません、となれば最悪です。

 同情や親切、寛大な心遣いは大切な道徳ですが、深い理性と真に人を愛する心が伴ってこそ、価値ある道徳となるといえましょう。また、同情されてうれしく思うのは、ただ気持ちを解っている人がいた、というだけのことで、「うれしい」と感ずるのは、甘ちゃんの域を脱していない。

 下まで降りていって、その場で、話してみることが一番イイが、それが難しければ、「もっと練習して強くなれ!」「強くなったと思ったとき、何時でも挑戦してくれよ、待ってるよ」「一度、手先を動かせてやってみれば・・・」「誰でも最初はうまく出来ないですよ。何度もやってみて上手になるのですよ」と。

 ふつうの人には、相手の気持ちを理解できる訳がない。相手は相手の人格があり、育った環境も教育も異なる。感じ方も価値観も違うものなのに、「その気持ちわかるわ〜」と言う人を見かけるが、相手からすれば「俺の気持ち解ってたまるか〜」という気になるでしょう。特に身障者に対して、憐れみを持って接すれば、もうダメですね〜。

 どんな場合でも、自分の価値判断を言わないことが大切です。「練習をしないからダメだ!」とか「やってみ〜、簡単だから」と、こちらの基準、程度の判断は言わないほうがイイ。いずれにしても、相手をその気にさせるのは難しい。(2019.10.1)