「同窓会をする」「しようか?」中学校、高校、大学など、最近よく連絡がくるようになった。卒業25年の記念などにも出席し、上京をしたこともつい最近のように思うが、10年以上も前の話だ。高校の卒業30年も、10年以上経つ。
世間では、何か60歳をひとつの関所のように動いていて、ついつい周りがそのように動いてしまうように感ずる。日本の社会だけが、特別にそうであるように思う。60というハードルは想像以上に高いのだ。
友人や仕事関係の担当者が、シフトダウンをして、ブレーキをかけ、停止してしまう。まだまだ安全に走れるのに、どういう訳か、止まっている。目に見えないものに止まらされているように思う。言わば群集心理かのようである。
実際にサラリーマンのメンバーが大半を占める異業者交流会では、代表の方が停年になり、幹事の方々も60前後になられてくると、会そのものの勢いが萎えてきている。同窓会の話題も、老後の話や孫の話、退職金、再就職などであるので、こちらまでブレーキがかかって、自分も止まらないとダメかなと錯覚をしてしまう。感覚が狂ってしまう。60になったら働いたらアカンとばかりにゆったりとしてくるのが、日本特有のオカシナ現象である。以前、バリバリと働いていた叔父たちは、一線を退き、最近は町内会でドブ掃除に参加したという話を聞くと、変れば変わるものだと、半分幻滅をしながら、半分安堵している。
60歳は人生にとって大きな節目である。還暦という年齢であり、赤のちゃんちゃんこを羽織って、家族が集まってお祝いをする儀式であることは、衆知のことであるが、それが目的ではないし、59.99歳と60.01歳では別段、体力的にも精神的にも、そんなに差はない。体力の衰えは自覚しているが、その反面、精神の冴えは若い時よりも鋭いものがあるように思う。経験から湧いてくる直感かもしれぬ。
自ら社業を営んでいる者にとっては、これからという時で、さらにひと仕事、それ以上をやろうとしている時に、周りが守成に入り隠居する。「皆が止まるから自分も止まる、皆と一緒に老後を楽しみましょう」。寂しい!彼らに引きずられてお付き合いすることはあるまい。ペースが狂ってしまうのだ。サラリーマンで馴らされてきた人たちは60を超えて働くことは要らないという考え方で、そこまですることはないやろ、と言う。これから10年でもバリバリやろうとしている人間の横で、勝手にピリオドを打ち悠々自適で過ごす輩を見れば、滑稽でもあり、面白くもあり、複雑な心境でもある。なぜ、君たちは後進に道を譲らされるのか。
以前、オヤジが60を過ぎた頃、中学時代の同窓会が定例になり、毎月第3木曜日に開催されるようになった。はじめはよく参加していたのだが、途中から余り行かなくなった。恐らく、同じような理由ではないかと思う。もうひとつは、物故者がボツボツと出てくるようになったからだと察する。
何ごとも過ぎたるは猶及ばざるが如し、で毎月毎月、同窓会というのも考えもので、ほどほどにしておいたほうがいい。いつかは飽きるということだ。(2009.10.9)
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