身内の恥は隠すのが自然である。その恥を暴きたてたいのは他人である。
自慢話を人に言いたいのも人間としては自然な姿であるが、それは極めて下劣なこと。
「自慢」とは、広辞苑で『自分や、自分に関係の深いものを、自分でほめ人に誇ること。』【自慢顔】【自慢臭い】【自慢たらしい】と自慢とつく言葉は、すべてマイナスの印象を受ける。ということは、自慢気なことは、人に言わないほうが無難ということになる。 自分は自慢と思っていなくても聞くほうが「自慢臭いな」と思えば、自慢となる。
ところが、人を煽て上げ自慢話をさせるのが得意な輩もいる。聞き出すことに喜びを見い出し、相手を気持ちよくさせて酒の一盃でも戴こうと「シメシメと、裏で舌を出している奴」である。落語の「子ほめ」や「胴乱の幸助」などはそれを諷刺した噺である。
ちょっと聞いたら「出るわ、出るわ、自慢話ばっかりや」、「××の話をしたら、もう見境がなくなって、得意顔になって3時間もつかまってしもた。しやけど鰻丼をよばれたで」など、自分が好きなこと(習い事や趣味)を他人につかまれると自分を失うことにもなりかねない。笑いのネタとなってしまう。
そもそも私たち誰しも、他人の自慢話を聞くに忍びないものだと感じている。聞いていて面白くないものだから、他人が揶揄して自慢させることに喜びを感ずるのだ。煽動する側は、話の内容は横に置いておき、自慢する人間の口調や言い回し、得意満面の表情に一喜一憂して楽しむのである。内容に対して「ほーッ」と感心して言っているのではない。「まだ言うか」「自慢はそれだけか!」と一種の嘲笑気味の心境で接してくるのである。
素直に羨ましく思い、素晴らしいと思う他人は、皆無に等しいのではないかと思う。目の前では「素晴らしい!良かったですね!」と口に出していても、本音では「結局、自慢したかっただけやんけ。何で私に言うのん。誰にでも言うてんのんとちゃうか。」となる。競争心を煽り喧嘩を売ることにもなってしまう。内心と発する言葉が異なるので、相手にストレスを与えることになる。度が過ぎれば「妬み」を買い、佐世保のスポーツジム散弾銃射殺事件のようにもなる恐れがある。
褒めちぎって煽てたり、牽制する話題で聞き出したりする人間には、下心や邪心があると思ったほうが間違いがなく、聞いた自慢話も恥曝しな話も、結局は人にとってはどうでもいい他人事で、特に得意気に自慢をすることそのものが恥の上塗りになりかねない。
自慢話よりは、恥を忍んで打ち明けるのは、まだ許せる。少なくとも話す人間と聞く人間の信頼関係が存在すると思うからで、また他人の恥部は知りたいと思うのが自然だから。
ところが、自慢話は話し手と聞き手のお互いの信頼関係がなくても、聞き手が訊ねていなくても、一方的に話し手の気持ちだけで発することができる。むしろお互いの信頼関係があれば、喜びを分かち合うのが普通で、あえて自慢話は言わない。
だから、自らの恥の他言は許せるが、自慢ネタの他言は一切許せない。(2007.12)
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