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心地よい距離
 
  夫婦の間柄は、それぞれのお国柄が異なるように、皆、特有の文化が存在する。夫と妻の距離もそれぞれの夫婦によって異なる場合が多い。お互いのプライバシーへの介入の度合が異なるわけだ。
  何から何まで日々の行動を逐一報告することが当たり前になっている夫婦もいるだろうし、一定の距離を保ちながら、夫婦の間柄といえども、固有のプライバシーには踏み込まない夫婦もいる。財布や携帯電話、手帳などには一切触れないのがマナーであると割り切っている夫婦もいる。その反対に隠しごとは一切ないと豪語する夫婦も見かける。
  仕事の関係で単身赴任など別居しなければならない夫婦もいるし、ある期間、お互い別居したほうが新鮮だという夫婦もいる。まったく男と女の関係は、千差万別で不可思議なものである。
  嫉妬心や好奇心から、踏んではならない地雷を踏んでしまい、関係がおかしくなる夫婦もいる。離婚に到る場合は最悪であるが、幾多の山谷を経て盆栽のように落ち着いた夫婦もいるし、初めから仮面の夫婦もいる。
  そもそも全く文化が異なる家で育ったのだから、合わないと解釈するのが自然であろうと思う。一緒に暮らすうちに、お互いが馴染んでいき、合わなければ合わせようという力が働き、また一致すればズレようという動きも 出てくる。ズレが大きくなると不安になり、またピッタリ一致していると不安になるものだ。
  このバランス感覚というか、均衡を保つ状態を、お互いに習得するまでに、時間と労力を費やしてしまうことになる。そこが夫婦の神髄ではないかと思う。
  夫がこうしたいと言えば、妻も大賛成、というのも少々困る。いつもその決断が正しくうまくいけばいいが、二人とも間違った方向へ拍車をかけて進む場合も考えられる。夫が走りすぎたら、妻は袖を引っ張るぐらいでなければいけないし、妻が浪費家であれば夫がたしなめるぐらいでなければ、本当の夫婦とは言えない。夫婦が同じ趣味を持つことは、いいことだと言われているが、程度による。ほどほどに同様の趣味を持つのはいいが、家が傾くほどに、周りが見えなくなるのは問題である。
  いづれにせよ、男と女である限り、動物学的に異なるので、二人とも同じスタンスで一致しているのは、まれであると考えるのが普通ではあるまいか。

  永い間の人生の伴侶であるから、無意識にバランス感覚が働いてくるのが普通で、夫婦で価値観が異なるのも当たり前で、ほどよい「ズレ」があるほうが、お互いに心地よい感じにはなる。
  心地よいというのは、ご当人の夫婦だけでなく、子供や近い人たちにとっても心地よいものである。なぜかと言えば、あまりにも同じ価値観を持ちピッタリ合っているのも、人間社会には不思議な現象で、まれである。どんなに同じDNAを持ち合わせていても、若干のズレがあるのは当然のことで、そのズレを縮める努力をすることが、周りの人間は即座にそれを感じとり、それが負担となり、かえって迷惑を掛けていることにもなりうる。相手のストレス原因にもなっているかもしれない。
  身内も他人も付き合っていて「しんどい」と感じるのである。自分は相手のことを思って「あーしてる」「こーしてる」と行動に移していることが、結局相手に負担を掛けていることになる。相手の気持ちを汲み行動することは素晴らしいことであるが、「気持ちを汲む」ということが相手の負担につながる恐れがある。
  ということは、ひっくり返せば、つまり立場が逆になれば、相手に対して「私にあーして欲しい」「私にこーして欲しい」ということを、示唆していることになる。さらに言えば、私はここまで気が付くので、周りの人たちには「気ーつけてやってや」と言っていると映ってしまうのだ。
  自分は「何も期待もしていないし、そんなつもりはない」と宣言したところで、周りには通じない。恐らく、自分は素直にそう思うから、そうなのでしょう。しかし結局は、やっている行動が、裏目に出るのである。知らぬ知らぬ間に、相手にストレスが溜まってしまうのである。
  それは、相手が欲することを基に判断していないからである。私ならこんなとき「こうして欲しい」という自分の判断が入っているからである。相手は冷たい水が欲しいというときに、自分なら暖かいお茶が欲しいからお茶を入れるようなものである。

  夫婦間のことについても、常に口に出して態度に表して、相手のことを思い(愛情表現として)お世話するということなどは、恩着せがましく映る。自分もそうして欲しいから、自分が安心するから、相手が安心するから 相手に対して愛情表現をする、ことになる。そうしないと自分が不安になるのである。今の生活が脅かされるように感じてしまうのかもしれない。
  愛しているからお世話するのではなく、夫婦だからお世話をしているのであって、前者は、愛情が冷えれば、お世話をしないことになるし、後者は、夫婦関係がなくなれば、お世話をしないことになる。
  常に伴侶に向い「奇麗ね」「愛している」などの言葉を発することは、茶番でしかない。一緒に人生を共に生きてきたことには、常に感謝をして、深い深い愛情があるのかなと思うときがあるが、その気持ちを言葉表現をするには「愛してる」という言葉が適切でないように思う。これは各人の主観によるので何ともいえないが・・。
  そもそも、お互いに言葉に出して「確認しあう」のは、自分たちの夫婦の間の愛情が薄まって来た証拠ではないだろうか。若いときの情熱的な生活がいつの間にか終焉を迎え、気がついたら、壮年になっている。子供が大きくなり、自分の世界を持つことに喜びを感じつつ。子供自身の手で小さな城を築くたびに、一抹の寂しさを感ずる。
  その壮年の現実を、そのまま迎えればそれでいいのであって、自分ら夫婦の間でも、子供の前でも、何も仲のいい夫婦、おしどり夫婦を演ずることは不要である。演ずることで、自らの心を満たしているのであれば、そんなバカげたことは即刻改めたほうがいい。
  家族仲良くというのは、きちんと育てられた家庭では当たり前の世界であると思う。自分たちが手塩にかけて、育て上げたいわば作品=子供であるゆえに、夫婦(=両親)がそれなりに仲が良ければ、子供達も仲がいいのが自然な姿である。
  お互いに嫁が来て、婿が付くと、合わない組み合わせも出てくるが、それまでも仲良くしなさいとは、親からは言えない。ある程度の距離を持ってお付き合いをするしかあるまい。
  家族が居て健康で過ごすことができれば、それだけで幸せである。何も物欲的なものを求めて心を満たすことが人生ではない。心が満たされば欠けていくのが道理である。 ほどよい量の幸せ(自分が幸せと思う)が持続できれば、人生は最高と言えよう。おこがましく私の力で相手を「幸せにしてあげる」とは決して思わないことである。それは傲慢でしかないし、神様でしかできないことである。せめて「幸せを願う」という程度にしておくことである。
  実際のところ、こうした生き方をすれば、ギラギラ感はなくなってくる。ゆっくりと控えめなスタンスとなる。構えることなく押さえつけることなく誰とでも気楽に接することができる。背伸びすることなく等身大で生きることが最高である。
  自らを追い込むことによって、自分を動かしてきた今までのやり方が、バカらしくなってくる。「べき論」で走ってきた今までのやり方が、目の前の目標が、無くなってしまい一瞬のうちにこれでいいのかと、不安にかられることもあるでしょう。しかし、それは自分だけであり、相手は何も解ってはいないし、伝わっていない。相手は、今までの(自分の)顔つきが穏やかになっているのを発見して、かえって(相手の)気が楽になったと喜んでくれるはずである。

  自然体でゆったりとしている時間をもつことが、一番のストレス解消につながると思う。私の場合は、出張をうまく取り入れて、解消しているのではないかと思う。月に一度や二度、一泊か二泊、時には海外出張に行くことにより、ホテルで気ままにゆっくりと休息をすることが、リフレッシュの手段となっているのではないかと思う。
  夫婦と言えど、足元に纏わりつかれるのは時には、煩わしいものである。家に居る場合であっても、自分の空間(世界)に、妻が土足で入ってくると、実に不愉快さを感ずるときがある。一人での生活を何年かを過ごした経験から、自分で寂しさを解消する「すべ」は習得しているので、一人でもの思いにふけることも、一種のストレス解消の場であり、リラックスをしている進行形の時もある。
  そんな時に、突然に妻が視野に入ってくると、精神状態が消化不良のまま置き去りにされたまま放置されることになる。これは、夫婦の間柄いえどもプライバシーを侵されたのではないかと思う。
  ストレスの解消方法は、人それぞれで異なるので、自分で自分のやり方を見つけるしかない。かかりつけのお医者さんや通院の世界ではなく、自分自身で解決するしかないのである。夫としてまた妻として「あーして見たら・・・」という提案は出来るが、カウンセラーのまねごとはしても、かえって相手に負担をかけてしまうことにもなりかねない。
  我が家では、夫婦の会話は、少ないほうである。30年以上も一緒に住んでおれば、相手が何を思っているのかは、ほぼ想像がつくものである。迷っているときもあるし、難しい顔をしているときもあるが、あえて「何も言わない」ことが多いように思う。冷たいと思われるかも知れないが、「どうしたん?」とたずねてみたところで、助けることは愚か、自分の力では、解決できないことが多いからだ。
  当事者しか解らないことを、夫に話してもまた妻に話しても「愚痴」としか聞こえずにそこからは全く解決法は見えて来ない。聞く側は、うなづくしかなく(反論でもすれば、ヒートアップして喧嘩になってしまう)、両方にとってプラスではなく、ストレスが溜まったままである。だから我が家では、精神的なことは自分で解決するようになっている。

  夫婦の間柄は「価値観を共有する」という大それたことではなく、一緒に暮らしていることが、原点である。ただそれだけである。(2006.10.7)