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共通一次の結果是正

   過日行われた共通一次試験で日本史と地理Bの平均点が20点以上の隔たりがあったために、調整段階に入ったというが、考えてみれば可笑しな話しである。
 鳥取選出の当選議員と東京選挙区で次点になった候補者との不公平を訴えるのとよく似ている。一票の格差とか、法的な根拠を詰めているわけだが、その選挙区にすこぶる有名なタレント性をもった候補者がほとんど得票してしまうならば、次点の落選候補者が大きな声で、一票格差云々ということもあるまい。つまるところ、選挙区なんぞは人口比率で割ってしまえばいいという乱暴な意見まで出てくる始末だ。たまたま、一票の重さを結果が出てから比べてみて、この選挙区は重くて、ここは軽いと分析をしたところで、マスコミや評論家が喜ぶだけで、話しは前へは進まない。
 法の下の平等というものの基準は、いったい何をして基準としているのかが明確ではない。いかにも、平等という言葉を前面に出せば、注目はされるし、大衆受けをする。自分という人間を平等に扱ってほしい、見てほしいと思っている人には受けるでしょう。また、世の中の不平等に対して、憤りを感じる人は支持するでしょう。しかしながら、声援をおくる大衆のほとんどは、平均値よりは下と思っているか、世間に対しての不満人間が多いと判断する。
 今回の入学試験のように平均値をその拠り所とするならば、どこかの業者が作戦的に0点を採る受験者を送り込めば有利となる。受験者は一点でも採ろうと努力するのが自然な姿であるという観点からの措置であろうが、地理Bを選択した者にとっては、なぜ調整するのかと憤慨するであろうし、日本史を選んだ受験生はラッキーを思うだろうが、その措置を実施することによって、地理を選択しながら不合格になった者は、「単に不運であった」とは、あまりにも可哀想である。受験生が日本史を選択しようが、地理を選択しようが、世界史でも現代社会であっても、選択科目を決めた時から、どうなるかは、本人の努力次第であって、それらの平均値が20点以上隔たりがあった場合に限り、調整するというのは、いかにも役所的な考えであって、辻褄合わせでしかほかならない。
 選挙であっても、受験であっても、結果から分析して、どうのこうのということは出来ないのが普通であると思う。選挙区によって、科目によって、一票の格差、平均点の隔たりが生じたから、是正調整するのは、まったく可笑しな現象である。そこの選挙区で立候補すると決めたのは、候補者本人であり、その科目を選択したのは受験生本人であることを忘れているのではないでしょうか。どこの選挙区でも、どの科目でも、自分の判断で選択できるのだから、マスコミなぞが煽るのは、可笑しいというより、滑稽に思う。
 となりの会社がボーナス6ヶ月を出したので、うちの会社にも6ヶ月要求しようというのと同じである。「韓国や台湾の経済がこういう状況なのに、日本は儲け過ぎだから、よくない。歩調を合せよ。」と、どこかの借金だらけの国が言っているのと同じ発想である。実に無茶苦茶な基準がまかり通っている。(1998. 1.21)