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人間は自由か、平等か!

   「社長、公平に見てください」と言われることがある。世の組織のリーダーやトップは必ずや、「公平」「平等」という文字に悩んだことがあると思う。すべてのものを公平に扱うという信念で、公平に分配すれば、この世の中どうなるでしょうか。
 百個あるものを公平に十人で分けると、十個ずつになる。また、働きに応じて十人に分けるとなると、さて分け方はどうする?二十個の人間も五個の人間も出てくる。よく働いたと思っているものは、公平に十個だと不満だろうし、ふつうに働いた者も、何か色をつけてほしいと思うのは、自然な姿であろうと思う。
 民主主義の時代になって、自由と平等ということがまかり通っていて、私たちはそれで当たり前と思っている。自由であると思っている。平等であると思っている。本当に、私たちは、そうなのでしょうか?自由で平等だと思い込んでいる。のではないでしょうか?また、そうでありたいという願望であるようにも思う。
 昨年亡くなった渥美清さんのフーテンの寅さんの生き方は、実に自由で奔放で、私たち誰しもが憧れる生き方をしている。羨ましい限りだ。同じシリーズが四十八作も続いたことは、この世の中は自由でない証拠であると言える。
 人間社会は、自由、平等であるべきだ。という考えを一旦、横へ置いてみて、人間は自由ではなく、平等ではないのだ。という考えてみれば、どうでしょうか。
 生まれた国、人種、環境などは異なっているし、それなによって、言語や風習、義務も権利も違っている。当然のことながら、教育も異なるし、価値判断の基準も違う。常識が異なる。個人レベルで見れば、顔、形、声、スタイル、走る速さや、異性の好みも違う。一般的に、大衆が「美人ですね」と見ていても、中には美人でないと思う人もいる。
 人によって好みも違うから、様々な業種が生まれ、産業が発展してきた。異文化に出会い、異業種との交流をしながら、人間は切磋琢磨して生きてきたのである。平等でないからこそ、世の中に変化があって面白いのではないでしょうか。
 貧しい人は、富豪に抱えられて生きていくだろうし、ほどほどに貧富の差があって当たり前のことだと思う。古今東西、社会のしくみはそのようになっていたはずだし、これからもそのようになっているだろうと思う。
 世界中のすべての人が、ある瞬間に均一な金持ちになり、同じ裕福さになったとしても、もう次に瞬間には、平等ではないし、公平ではなくなる。それは、各自の価値観や教育、判断基準などが違うからだ。
 平等観、公平観ということが、不可能で、そのように扱うことがいかに無意味であるかが、理解できると思う。
 本来、人間は生まれた時から、自由ではなく平等ではないと思えば、それで事が済んでしまうのだが、そもそもそれらの概念を創った人間たちを怨みたい気持ちになる。自由主義や民主主義などが存在するから、かえって意見がまとまらない世の中になっているようにも思う。君主制であっても、民のことを思い健全なる政治を執ってくれるなら、それで申し分ないことかもしれない。民主主義の政治では、各人が意見を持ち、派閥が出来て、党が作られ、結局、力や数の勝負となる。つまるところ大衆受けのする政治になってしまう。(1997.3 管材新聞掲載)