1.7年半ぶりの訪中
ゴールデンウィークの名古屋国際空港は、連休を利用しての海外旅行をする人たちや見送りの人たちで早朝にもかかわらずごったがえしていた。
昨年の秋、田中角栄元首相が訪中し、アメリカ大統領選挙の真只中、天皇陛下が御訪中された。その事実がたいへん気懸かりで、脳裏にこびりついている。アメリカは「ふたごの赤字」をかかえて、日本叩きは今後も続くだろうしアメリカは日本にとってお荷物になってしまったような気がしてならない。日本からのなんらかの援助がなければ、アメリカはもう息ができなくなっていると言っても過言ではない。 「今、なにゆえに中国なのか」という仮説を胸に抱きながら、商工経済新聞社主催「中国経済視察」7泊8日に参加することになった。私にとって、中国は2回目で7年半ぶりの訪中となる。89年の天安門事件以降、自由市場経済政策を実施して、どのように変貌したか、この7、8年の中国の発展を自分の目で確かめたい気持ちでいっぱいであった。
9時35分、搭乗開始。定刻10時、JL787便は北京へ向け、力強く大空へ舞い上がった。「北京は、曇り、気温15度、到着時刻は12時40分を予定しています」とアナウンスが入る。機内のスクリーンでは、7時のNHKニュースが映りだした。「花巻空港で着陸に失敗した」というニュースは、あまり気分がいいものではない。機内サービスのドリンクが運ばれてきて、うす紫と水色のキャビン内にはホッと安堵感が漂う。
今回の訪中は、北京で開催される国際工作機械展「CMIT93」の見学と北京、瀋陽、大連の機械・鋳造の工場を12社を見せていただくことになっている。首都北京は別として、中国東北部は戦前の満州時代より日本企業が進出し、戦後は旧ソ連が技術指導した中国有数の重工業地区ときいている。特に鋳物製造に関しては評価も高く、日本への輸出も拡大一途といったところである。
となりに座っている東海日中貿易センターの倉田氏は、このツアーのコーディネーター役をして頂いた。北京にも事務所があって、3年間北京に駐在されたときく。日本と中国の商取引において何らかのお手伝いは出来ないかという民間の団体だそうである。中国語もご堪能で、私たちのツアーにとって、たいへん頼もしい存在である。ツアーは総勢15名。トヨタグループ関係のメーカー工場や商社の方々、工具関係のメーカーの方々、鋳造メーカーバルブメーカーそして大阪より活黹m瀬の一瀬社長と私が参加した。 「あと、20分で北京空港へ着きます」とアナウンスが入る。12時40分、着陸体制。12時40分、着陸。
北京空港では、共産圏の国独特の張り詰めた雰囲気はなくなっていた。国際線よりの入国審査も手荷物検査も簡単に済ます。フリーパス同然といった開放ぶりである。以前訪中したときとは全く異なり、身体検査はない。入国を済ませ、ロビーに出るとブレザーを着た中国人が「タクシー、タクシー」と寄ってくる「不要(プーヤオ)」と応えるが、また別の中国人がうるさく「タクシー、タクシー」と寄ってくる。呼び込みは凄まじい。7、8年前は、顔つき目つきが、私たち「よそ者」に対していわゆる恐れや不安を持っていて気軽に声をかけられることは皆無であった。共産国にやって来たのかと、自分の目を疑ってしまう。テンポの早い流暢な中国語と、人が多いのとでムンムンする活気が肌から伝わってくる。
空港ビル前には「上海号」のタクシーに変わって、黄色や赤色のタクシーがずらっと並んでいる。クラウンやシャレード、ボックス型の軽自動車のタクシーでである。 さぁ、中国はどんな驚きとヒントを与えてくれるのだろうか。私は胸をふくらませバスに乗り込んだ。
2.躍進著しい経済
北京国際空港より北京市内へ高速道路が出来ていた「へー高速が出来たのか」自動車の交通量もかなり多くなっている。高速道路はまだ市内まで完成しておらず、一般道路に入った。三頭だてのトロイカといわれる馬車は姿を消している。自転車が多いのは相変わらずだが、しかし、30インチもある黒色の自転車に変わってデザインのよいカラフルな自転車が増えていた。
服装も、紺色、ねずみ色の人民服を着ている人はほとんど見あたらず、男はブレザーやジャンパー、女性はスカートや足首まであるスパッツ(今、中国では流行っている)を着ていた。街がカラフルになっている印象を受けた。中には、ミニスカートを着て自転車に乗っている女性もいた。
至るところの交差点、街道には、西暦2000年のオリンピック北京大会の招致看板と BEIJING IS WAITING FOR YOU.(北京はあなたを待っている。)という看板が目についた。
バスでは、東海日中貿易センターの北京事務所の方々の紹介があった。ひとりは張さん(女性)、もうひとりは阮氏である。ふたり共日本語をじょうずに話された。一般の観光ガイドとは異なり、親しく接することができそうだ。
私たちは、まず国際工作機械展「CIMT93」の主催している中国機床工具工業協会を表敬訪問した副総幹事長の廖さん(女性)をはじめ、鋳造技術の専門の方、貿易の市場開発担当の方々と会った。
5日から始まる世界で第4番目規模の工作機械展への招待のお礼と人民大会堂でのレセプションの招待のお礼を申しあげた。
躍進著しい中国経済だがその好調の波を支えているのが機械工業と関連機器の積極的な導入といえる。中国は91年から第8次5カ年計画をスタートさせ、一層の産業界発展を狙っており、GNPの伸びは年平均6%を予定している。因みに中国の外貨準備高は約400億ドル。この5年間に3500億ドルの輸入計画があり、工作機械は30億ドル輸入の予定である。
名刺交換をして、私たちは5日から始まる同機械展での再会を約束して協会を後にした。
バスは、北京市内に入って来た。車、自転車、人、がほんとうに多い。クラクションの音も耳ざわりだ。信号があっても人や自転車は、あまりそれをたよりにしていない。交通事故が起こらないのが不思議だ。
バスが進む道路の中央は高架環状道路の建設現場がつづいている。10qいやそれ以上かもしれない。一度に道路建設を行なっている。空港からだと数10qになるだろう。実に建設にたずさわっている労働者の人数はものすごい数になる。どの現場にも絶え間なく人夫が手作業、機械作業をしている。
紀元前、秦の始皇帝が北方の遊牧民族の侵入を防ぐため、30万の軍兵と農民百万を徴発して築いた万里の長城のごとく、一度に工事にかかることは、中国古来の伝統的なやり方なのかと納得せざるを得ない。
それにしても、すごいパワーである。技術陣は別として中国の労働市場の豊かさには、驚くばかりか脅威を感ずる。
北京で宿泊する京倫飯店は、建外大街に面していた。ちょうど天安門から西へ数qに位置する。チェックインを済まし、今日の2番目の訪問先、中国機床総公司を訪ねた。
同公司は中国で最も大きい工作機械・工具関係の輸出入商社である。権総経理(社長)をはじめ対日輸出担当の陸氏、陳氏が私たちを迎えてくださった。名刺交換の後権社長自ら中国における工作機械・工具業界の概要をホワイトボードで説明して頂いた。
中国の工作機械・工具メーカーは約1000社、従業員数は70万人を越える工作機械、鋳造機械、木工機械、測定機器、切削砥石機械付属品に分けることができる。 中国の工作機械生産台数は91年が約16万3000台前年比21.9%増。金額は11億800万ドルで同30.7%の増。92年には17億4000万ドルで20.3%の上昇となっている。これは世界全体からみると第10位。また中国国内の生産台数に輸入台数をプラスした機械の市場規模は92年は23億7800万ドルとなり、これは対前年比30.7%の伸び、市場規模では世界の第5位に躍進した。今年も前年比25%増が見込まれている。
質疑応答のあと同公司のご好意で北京国際飯店での招宴となった。
ホテルに帰ると、一日の疲れがどっと出てくる。日本より持ってきた電気ポットでお湯を沸かしコーヒーを入れ、同室の一瀬さんと一日目の中国の雑感を語り合った。
3.空調完備し精度維持、超一流の工場
次の朝、6時30分。目が醒め、コーヒーを入れた。今日は、午前中は盧溝橋近くの鋳造工場、昼から北京市内の工作機械工場と自動車エンジン工場を見学する予定である。
出発の時刻に合わせて中華スタイルの朝食をとったお茶、お粥、揚げパン、焼売、鳥の足の煮物、中華風パンの六品である。8時ちょうど私たちは出発。天安門広場と前門の間を通り、北京市の西南の方向へバスは進む。高速道路に入った。超車道、行車道とみどり地に白字の大きな標識板は、追越車線、走行車線である。漢字をよく読むと意味が分かるものがあるので、実に楽しい。
バスの速度が遅くなった「あれが、盧溝橋です」かつて、西方からの旅人はこの盧溝橋を渡って北京へ入ったといわれる。マルコ・ポーロが「東方見聞録」の中で「川には立派な橋がかかっている。おそらく世界でもまれに見る美しいものであろう」と記しているが、なるほど重量感がありアーチ型が美しい。しかし初夏の陽気と離れているので埃っぽく見える。日中全面戦争の発端の場となった盧溝橋、改めて平和の尊さを痛感させられる。
9時すぎ、北京第二機床廠鋳造廠を訪問した。煉瓦造りの事務所に入る。まるで大学の研究室の廊下のようである。照明は暗い。応接室に案内され、生産処処長の宋氏と名刺交換をした。同工場は主に北京第二機床廠向けの工作機械の鋳造をし材質はFC。通常単重5トン以下のものを製造している。日本の旋盤メーカーと技術提携していて輸出しているそうだ。敷地11万u、人員900名、生産量5000トン以上。
ジャスミン茶が運ばれてきたが早速工場内を見せていただくことになった。鋳物工場に足を踏み入れ型枠の大きさに驚いた。使用砂の加減のためか、単重が大きいためか、湯を流す前の型を修復している。荻野氏(豊和鋳機専務)にたずねると「内モンゴル産の5〜6号硅砂ですよ」と言われた。
宋氏の説明では、5トンキューポラの操業をコンピュータ制御に改造計画中とのこと、積極的に設備改善に取り組もうという姿勢は感じられる。製品の納期は木型を提供して3ヵ月、不良率は8%賃金は鋳造部門で平均600元(賞与含)など私たちはいろんなことを教えていただき同鋳造廠を後にした。
舗装をしていない道路は砂埃が舞い上がり、何かの花粉のような綿も飛んでくる。小さな売店があった。老婆が店番をしている。タバコ、飲み物、駄菓子、インスタントラーメン。先程からバスは踏切りの手前で止まったままである。
老婆と目が合った。まだバスは止まったままである。私は窓を開けタバコを吸う仕草をした。並んでいるタバコの適当なものを指差すと、老婆も目と指で応じた。老婆は背伸びして手渡してくれ、5元札と交換した。ところが老婆は何か文句を言っている。私の渡した5元札が問題らしい。
阮さんが助けに来てくれた。私の渡したお金は兌換紙幣で、老婆は人民紙幣でないので偽札と思ったようだ。
昼からは、北京第一機床廠を訪問した。ちょうど宿泊している京倫飯店の向い側にあって、北京市内のど真ん中にこんなに広い工場があったのかと驚く。マイク設備の整った広い会議室に通される。
同工場は中国最大の工作機械工場で、敷地面積71万u、人員9100名、生産額1億8000万元といった規模である。副総経理の徐氏と名刺交換をし、早速工場内を見せて頂いた。
工場内の整理整頓は行き届いて、NCの機械も導入して充分に使いこなしている。組立工場では空調設備も完備され、精度の維持管理も考えている。最大60トンのッドが製造可能で日本の機械メーカーに25トンのベッドを輸出した実績ももつ。ワールドリヒ社との技術提携して作ったという門幅5m、長さ28mの巨大な機械にはビックリさされた。国内で超一流を誇るだけに信頼性は非常に高い。日本があぐらをかいていると足元から崩れていきそうな気がしてならない。
工場が広いこともあり次の予定もあるので鋳造工場は見学できなかった。まことに残念。ちょうど休憩時間になったのか、職員の皆さんが工場の外へ出てきて、構内送の音楽に合わせて体操をしているところだった。名残惜しく第一機床廠に別れをげ北京内燃機総廠へ向った。
4.鍛造品から研磨加工
バスは北京市の南東に向って進む。バスに乗ると外を眺めるのが我々人間の習性かもしれない。相変わらず、車、自転車、人が多い。時々「おーっ」という女性を見かける。銀座や北新地から出張して来ているのかなぁと目を疑う。サングラスをかけ、真っ赤な超ミニのスーツにハイヒールの女性が北京の街を歩いている。
国というものは何か国際イベントを成し遂げるたびに大きくなるというのが自然なのであろう。90年のアジア競技大会以後はかなりのテンポで国民の意識が変化しきていると、女性のファッションからも実感できる。もし2000年にオリンピックが開催されれば、何かにつけて加速度を増して成長するにちがいない。
北京内燃機総廠は工場から工場へバスで移動するほど広い工場であった。合資等備処(JV)処長の厳氏と進出口貿易部の呈氏と名刺交換をし、呈氏から概況をお聞きした。
敷地面積100万u、人員2万5千名(三交代制)、昨年生産実績22万台、今年は30万台を目標。中国最大規模の自動車エンジン専門工場である。
各エンジン毎に工場を分離し、ほかに鋳造、鍛造、木型、治具、加工、修理、研究所などがある。本社以外にも付属品の工場が分散して設置されている。カムシャフトの製造ラインでは、鍛造品から研磨加工仕上まで実に40数人もの職工がずらーと並んでいたのには驚いた。また組立ラインではビスが1〜2本欠如していても、そのまま流れていきそうな不安を、職工の動きから感じられた。
工場を見学したあと同廠より具体的な要望があった。応対してくださった方がJV担当であったので日本企業との合弁、共同製作に興味があり、希望しているとのこと。特に鋳造部門の援助が欲しいし、技術も資金も両方来て頂ければという、初めての訪問にしては、かなり突っ込んだ内容であった。シリンダブロックのアルミ鋳物の不良率が15%とたいへん高いからかもしれない。
浅野団長(アイシン高丘専務)からおみやげと記念品をお渡しし、私たちはバスに乗った。
夕食は前門大街にある全徳というところで食事をした。北京ダックがおいしいと広く知られているこの店は、120年の歴史を誇る。客席数は約400と広い。壁には書画が飾ってあり、すばらしい美術工芸品であった。私たちは、2階の一番奥の新装した部屋に通された。きょうが初日だそうで、店主が「あなたたちは、初めてのお客さまだ」と歓迎してくださった。
私たち団員15名と日中貿易センターの張さんと阮氏の、いわば身内だけの宴会であった。団員の皆さんのお名前もお顔も分かって旅行にも慣れてきたせいか宴は盛り上がった。 中国の一人っ子政策の話になり、もし二人目を出産すればどんな罰則があるのかと、となりに座った張さんにたずねた。「もし二人目を産むと、罰金10万元です」と。5百元前後の給料では、気の遠くなる金額だ。「双子だったらどうなるの」という質問には言いにくそうにやっぱり二人目は罰金の対象になるという。張さんのしゃべりっぷりから、何か抜け道があるような気がした。実際のところその政策が中国の隅々まで浸透しているかは疑問であった。
メインの北京ダックが運ばれてくる頃には、私の前には茅台酒のグラスが10個ほど並んでいた。お酒にはあまり強くない私だが、茅台酒は好んで飲めるほうである。ウイスキーよりはジンなどのスピリッツのほうが口に合う。ハッキリとは覚えていないが、20杯ぐらいは飲んでしまったようだ。
ホテルに帰ってくると酔いざましに、味噌汁と梅干しを食べた。商工経済新聞社の舟橋氏が9045室で酒盛りをするので、お邪魔したが、ビールのみにとどめておいた。
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